第二章⑬
8
「タスク、大丈夫か?」
ひたひたと足音をたてながら、前を歩くタスクに、フィルトは様子を伺うように声をかけた。先ほどからタスクはこちらに背中ばかり向けていて、言葉少なく歩を進めている。時折手の甲で鼻をこすり、そこについた血痕を地面に振り払う仕草を続けている。少しばかり息が荒い。こちらに向けている背中が、脂汗でぎとぎとと濡れているようにみえる。
タスクが足を止める。連鎖的に、フィルトも歩みをやめた。
「血が止まらない」
ごしごしと鼻を拭うタスクの手は、赤く染まっていた。「それ以外は、大丈夫だ」
そう言って振り返ったタスクを見て、フィルトはぎょっとした。鼻からの出血は彼の顔の半分を染め、それだけではとどまらず、首筋や、胸元、腹部にまで流れ落ちていた。
「リーレンがいないと、困るな」
タスクの言葉に、二人して苦笑した。幸いにして、鼻からの出血も、骨折も、命の危機に瀕するものではない。しかし、心に忍び寄り、感情を侵食していく不安を大きくしていく原因にはなりうる。痛みに耐える訓練を積み重ねた成果か、鼻の鈍痛はさほど気にならなかった。それでも、出血が止まらないことは気がかりのうちのひとつだ。このまま体内の血が全て流れ出してしまって、失血死してしまったらどうしようかなどと、突拍子もない想像が頭をよぎる。馬鹿げていると思いたいが、その考えを嘲弄する根拠はない。
立ち止まるわけにはいかない。早くこの状況から抜け出して、リーレンたちと合流しなきゃいけない。ただその思いだけが、タスクを突き動かしていた。
先の戦闘の後、タスクたちはただ長い通路を歩いているだけだった。山の峰のような足場の不安定な場所ではなく、今は落下や転倒の恐れがない、平面の道が続いている。何もないことが、逆に不気味だった。何せ、二人には予備知識というものが皆無に等しい。
バリウの村があんなことにならなければ、若しくは、二人の師匠であるコトが存命であったなら、焼暴士になるための正式な手順だとか、仕組みだとかを教わる手筈となっていたのだろうか。互いに口に出さないだけで、不明瞭な展開に対する不安感は、どうしても拭えはしなかった。
「先が、無い……」
タスクがぼそりと呟いた。フィルトが横に並び、目の前に聳え立っている壁を見上げた。
「行き止まりか?」
これまで自分たちが歩いてきた背後を振り返る。無機質な通路が伸びているだけだった。両腕を伸ばしたときに、手のひらが壁に触れられる幅しかない通路を歩いてきた。果てに辿り着くと、そこから先には進めない。何とも理不尽な空間だ。
「壁を登って、上に行くのかな」
タスクが、壁のところどころから、申し訳程度に飛び出している突起を指さして言った。タスクの指の先を見る。確かに、壁の一部は、ここに手足をかけて登っていけと言わんばかりに突き出している。明らかに人の手が加わった造形物だった。
「考えてても埒が明かねえ。行くぞ」
フィルトの言葉に、タスクは頷いて、まずは左手を、手近にあった突起物にかけて、壁を登っていった。
地面から直角に伸びた吹き抜けは、人が一人ずつ登っていくのがやっとの幅だった。タスクが辿った壁を、同じようにフィルトが後を追う。何かまた罠が作動して、二人が窮地に陥るのかと思ってひやひやしていたが、梯子を昇った先に経路がある時のような形で先へ進む通路が視界に入ったとき、二人して安堵のため息をついた。少し窪んだその空間にあったのは、硬く閉ざされている鉄の扉だった。
楕円に縁取られた赤銅色の扉には、取っ手が無く、タスクの頭頂部より少し高い位置に、龍の形を模った、真鍮の叩き金が取り付けられている。タスクは一瞬躊躇いつつも、龍の首元から生えている鉄の輪っかを手に取り、かんかんと音を鳴らした。
次の瞬間、飾りであるはずの龍の目が、ギラリと緑色に光り、タスクとフィルトの姿を捉えた……ように見えた。幻覚ではない。タスクは、もう何が起こっても、いちいち驚かないことに決めた。バリウの村で暮らしていた頃とは違って、急激に世界が広がった今、知らない物事の方が多いだろう。目の前で起こる全てのことは、夢や幻想ではなく、現実に起こる事象だ。それだけを承知していれば、いちいち驚愕して心を疲弊させることは減るはずだ。
龍の目はすぐに輝きを失った。その刹那、ギイと甲高い軋み音を鳴らしながら、ゆっくりと扉が開いた。
タスクとフィルトは互いに顔を見合わせ、どちらからともなく、先へ進んだ。二人が並んで扉の向こうに入っていく。視界がひらけた先には、円卓が置かれていて、そこに男が三人、こちらを向いて佇んでいた。
男のうち、二人はミュウキが身につけていた甲冑と同じ装いを身にまとい、直立不動の姿勢で立っている。兜の奥からの鋭い眼光が、自分たちを突き刺していることに気づき、タスクは身のすくむ思いで視線を床に向けた。
卓を挟んでちょうど正面に鎮座している男は、見るからに周りの者とは立場が違うと分かる出立ちだった。きっちりと着込んだ軍服は、逆にこの場からは浮いて見える。紺色の上着には肋骨のように、ドルマンが飾られており、薄暗い室内でもきらきらと輝いている。タスクはそんな服装をした人間を目の当たりにするのは、生まれて初めてだったため、思わずじろじろとそれを見ていた。
「よく来たね、さあ座って」
男が口を開いた。穏やかな口調だ。おおよそこの場には似つかわしくない、柔和な笑みを讃え、彼は卓を挟んで自分の前にある椅子を手のひらで指し示した。
タスクはごくりと唾を飲み込んだ。とりわけ暑くもない空間にいるというのに、腋の下にじんわりと汗をかいていた。
誰だ、この男は。
おそらく、タスクだけではなく、フィルトもそう思っているのだろう。二人とも、勧められた席には座らず、訝しげな表情で、目の前の男を見つめ続けていた。
「貴様らっ! さっさと動かんか!」
突然発せられた怒声に、タスクはびくりと体を震わせた。軍服の男の両脇にいる甲冑のどちらかが、タスクたちに投げた声だ。声色からして、自分たちと齢十以上は離れているであろう兵士の命令に、タスクは身のすくむ思いで、素直に従った。
「貴様らとは違って、イロク様の時間は、貴重なのだ。一刻も無駄にしてはならぬ。次はないと思え」
先ほどと同じ声の叱責を受けた。今度は、声の主が分かった。イロクと呼ばれた軍服の男の、向かって右側にいる兵士の声だった。尚も何かを言いたげな兵士を、イロクは左手をあげて制した。にこにこと柔和な表情は崩さずに、それでもその目力の強さは、この場にいる誰よりも大きいものであった。タスクは、全身にその視線を感じながら、身を硬めていた。緊張で体が強張る。太腿の上にぎゅっと固めた拳に、未だ止血していない鼻血が一雫落ちる。
「す、すみません」
タスクは目を見張り、咄嗟に手のひらで鼻を覆った。
「痛いかい?」
イロクの問いに、タスクは視線を彷徨わせ、「は、はい、い、いえ」と、要領を得ない返答をした。言葉のひとつひとつを吟味して、話さねばならない気持ちにさせられる。
スッと、音もなくイロクの腕が伸びてきた。それにいち早く反応したのは、フィルトだった。タスクの身を守るように咄嗟に右腕を伸ばし、イロクの手がタスクに触れるのを阻止した。イロクが目を丸くしたのと、兵士が二人して瞬時に円卓を超えて、フィルトを取り押さえ、卓上に彼の半身をすり付けたのが同時で、その直後にタスクは椅子から飛び上がるように立ち上がり、戦闘態勢をとった。
「君たち、離してあげなさい。なにも同胞を乱暴に扱うことはない」
場において、一番冷静だったのは、こうなるきっかけを作ったイロク本人だった。彼の言葉は兵士たちにとって絶対のようで、まもなくフィルトの拘束は解かれた。
「ごめん、フィルト、大丈夫か?」
険しい表情のまま前方を睨みつけているフィルトに、タスクは遠慮がちに声をかけた。フィルトは「ああ、なんてことねえよ」と答え、肩を上下に動かしてみせた。
「すまない」と、イロクは言葉を続けた。「私の言葉が足りなかったね。……私は、何も君たちに危害を加えようとしたんじゃない。私の力で、君の怪我を治してあげようと思ったのだよ」
イロクの目は、タスクを捉えていた。さっきからイロクが他人のことをさして話すとき、対称を「君」としか呼ばないことに、タスクは引っかかりを感じた。会ったばかりで、自己紹介をしていない自分やフィルトならともかく、配下の兵士たちも、同じ表現で呼んでいる。そんなんじゃあ、誰のことを言っているのか、わからないじゃないかと、タスクは心の中で不満を漏らした。
「イロク様はエマティノスの長にして、史上最高峰のランロイで在らせられる御方だ。まさか貴様ら、知らぬ訳がなかろう!」
兵士はなおも敵意を剥き出しにして乱暴に言葉をとばした。その余りにも強い気迫に気圧され、タスクは目を逸らし、円卓の淵の一点をずっと見つめていた。
「少し黙りなさい」
イロクは、視線をタスクとフィルトに向けたまま、兵士に向かって喝を入れた。兵士の体がビクッと飛び上がって、「申し訳ございません」と直立不動の姿勢になる。一呼吸おいてから、イロクは再び口を開いた。
「これまでの私のことは、知っていても知らなくても、何方でも構わない。……しかしこれから、ただの見習いではなく、正式に焼暴士として生きていくならば、君たちはエマティノスのことを知っておく必要がある。だから、少し話をしよう」
タスクはフィルトと顔を見合わせて、またごくりと唾を飲み込んだ。
イロクに再び促されて、二人は彼の向かいに腰を落ち着けた。イロクの掌がタスクの鼻の周りを覆うと、鼻尖からじんわりと温かい何かが流れ、それが鼻全体に巡ったころ、痛みが癒えていくのがわかった。
タスクは目を丸くして、イロクを見た。リーレンが誰かの傷を癒すときは、必ず何か呪文を唱えていたというのに、目の前のこの男は、口を開くことなく、自分の怪我を癒してしまった。先ほど兵士が声高に言っていた、「史上最高のランロイ」と謳われる所以なのだろうなと、考えた。
「ありがとうございます」
ぺこりと会釈をする。体に流れた血痕をどう処理しようかと考えていると、イロクがそれを見透かしたかのように「あとでお風呂に入りなさい」と言った。
「さて」
話を続けようと、イロクは言った。
「君たちは、焼暴士とラヨルの諍いについて、コトからどれだけのことを聞かされていたのかな」
「し、師匠をご存知なんですか?」
イロクの口から不意に出たコトの名に、タスクは脊髄反射のように反応してしまった。また兵士に「イロク様の質問に答えろ」などと怒られるのではないかと焦ったが、兵士は口どころか身動きひとつせず、佇んでいるだけだった。
「私は彼女のことをよく知っているよ」
曰く、コトは焼暴士ではなかったものの、イョウラの継承者として、長年バリウの村に生まれた男たちを何人も鍛え上げてきたらしい。そこまではタスクやフィルトも、周知の事実だった。
「バリウの村は、我々エマティノスが統治する土地でね。このヒノオ大陸の中にいくつか存在する、焼暴士を育て上げるための場所だったんだ」
「じゃあ、オレたちは、焼暴士になるべくして、生まれてきた存在、というわけですか」
「そうなるね」
フィルトの問いかけに、イロクはさらりと答えた。ぞくりと心がざわついて、フィルトは口を半開きにしたまま、言葉を探した。
「じゃ、じゃあ、オレたちは……」
言っていいものか、不意に迷いが生じて、口をとじる。舌の上で言葉を転がすかのように、もごもごと顎が動いた。
「君たちを含め、バリウで育った男は、もれなく焼暴士となる運命だ。そのために育て上げられ、幼い頃からイョウラという武術を叩き込まれる。そうして時がくれば、鍛え上げられた男たちは、自分がこの世に生まれおちて背負った宿命を聞かされ、エマティノスの一員となり、ラヨルを討つために闘うことになる」
タスクとフィルトは、互いに顔を見合わせて、黙り込んでしまった。自分たちの人生は、生まれた時から、予定調和のように決められていたのだ。今更、平穏に生きることを望んだとしても、それは到底叶わぬ願いではあるし、生き方を変えるつもりもなかったが、自分たちが歩んできたこれまでの過去が、そしてこれから歩んでいく未来が、誰かによって掌握されているとしたら、それはどうも気分が悪いものだ。
「話を続けるよ」
黙りこくったまま身じろぎしない二人を見て、イロクは穏やかに言った。タスクは小さく「はい」と答えた。
「イョウラは、遥か昔よりこの国で伝わり続けた武術をもとに、ノーラに対抗できるように発展した戦法だ。君たちも、それはよく知っているだろう」
「はい、師匠から教わりました」
フィルトの受け答えに、タスクもつられたように頷いた。イロクが微笑を浮かべる。彼の視線は、確実に二人を見ているだろうに、自分たちの存在が、捉えられていないのではないかと、タスクは感じた。
「では、復習を兼ねて、いくつか確認しておこう」
イロクが言葉を続ける。タスクは、顔についた鼻血の跡がどうも不快で、腕で口元を拭ったあと、大きく深呼吸をし、ピンと姿勢を正して、次の言葉を待った。
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