第二章⑪

 6


(あ、あいつ、俺が倒したはずじゃ……)

 バリウの村の戦闘で、確かに自分の拳で倒した男が、目の前に再び現れた。タスクは俄に狼狽した。デューザの腹に沈めた拳の感触が、記憶の中に蘇ってくる。タスクの拳を易々と受け入れたデューザの体は、自衛のために、精一杯筋肉を張り詰め、抗ってきた。それでも、リーレンの呪文の効果で一時的に跳ね上がったタスクの力は、彼の筋繊維を破壊し、致命的なダメージを負わせることとなった。動かなくなったから、死んだものだと思っていた。まさか、生きていたとは。

「どこまでもオレたちにつきまとってくるようだな」

 フィルトだ。タスクの背後をとり、逆方向からの奇襲がないか確認しているところだった。タスクが動揺した気配を察知して、声をかけたのだ。上気して火照ったフィルトの背中が、タスクのそれに触れる。燃え盛る丸太の振り子を避けただけの、特に意図してのものではなかっただろうが、タスクの動揺が少し落ち着いた。大丈夫だ。相手がどうであれ、自分たちの邪魔をしてくるのなら、また倒せばいい。それだけのことじゃないか。

 タスクは落ち着きを取り戻し、改めてデューザと対峙した。相手も狂気的な目つきで、その視線をタスクに向けている。タスクの背に、嫌な汗が流れた。

(……勝てるだろうか?)

 つい今しがた、平常心に戻ったというのに、そんな考えが頭をよぎった。タスクの心に、弱気が芽生え始めていた。それは、徐々に大きくなっていく。

(俺は、今度こそ本当にこいつを殺せるんだろうか)

 デューザの目を見た瞬間、心臓の鼓動が早まった。全身に鳥肌が立ち、手足の震えが止まらなくなる。恐怖に支配された脳裏には、かつて目にした光景がフラッシュバックする。

(ダメだ)

 頭を振ると、タスクは、無意識のうちに一歩後退していた。

(しまった!)

 足場がわずかに崩れた。それに気づくのが遅れたタスクは、足を取られてバランスを失い、その場に尻餅をつく。燃える丸太がタスクの腹の上をかすめ、火の粉を撒き散らしていった。タスクの体に降りかかったそれは、彼の皮膚から吹き出している汗によって消失していく。ノーラの炎が、血以外のものでも消えたことに、タスクはそのとき驚愕した。火の粉のような小さな火種は、水分でも消えるのだろうか。

 我に返って視線を上げると、デューザがタスクに向かって駆け出してくるのが見えた。タスクは咄嵯に立ち上がろうとしたものの、体勢を崩し、思うように体が動かない。隙をみて間合いに入り込んだデューザは、タスクを地面に押し倒すことに成功した。そのままタスクの両腕を拘束すると、彼の顔に、拳を思い切り叩きつけた。

 鼻骨の砕ける音が、タスクの体内に響く。鼻からの鮮血が飛び散り、視界の半分近くが赤く染まった。激痛が走り、息ができない。タスクはえづきながら、苦悶の表情を浮かべ、デューザを見上げた。

(くそっ、このままじゃ……)

 なんとか抵抗を試みようとするが、腕の自由を奪われているため、身じろぐことすらままならない。

 デューザは口角を上げ、タスクの髪を掴んで引き上げた。タスクの瞳は焦点を失っている。拘束を解かれたはずの腕はだらりと体の脇に垂れ下がっている。デューザは抵抗することもままならないタスクの頬に拳を何度も打ち付けた。タスクはされるがままだった。意識が遠のき始めている。自分が何をされているのかさえ、もはや認識できない状態だった。

 その時、タスクの視界に影が差した。何者かが、タスクとデューザの間に割って入ったのだ。

 フィルトだ。彼がタスクを庇うように、デューザに向き直った。フィルトの拳が、デューザの顔面に突き刺さる。鈍い打撃音が響き渡り、後方に吹き飛ばされると、デューザは背中から地面に落下した。

「チッ」

 デューザは短く舌打ちをして立ち上がった。フィルトに向けたその表情を見ると、まだ余力はありそうだ。間髪入れず間合いを取り、フィルトの腹部に蹴りを入れると、フィルトの口から苦痛の声が漏れた。デューザは更に追い討ちをかけるべく、フィルトに襲いかかろうとする。

 タスクはその隙を狙っていた。全身の力を振り絞り、右腕を動かす。タスクは自分の髪を掴み上げているデューザの腕に、勢いよく手刀を叩き込んだ。デューザは思わず手を離す。タスクはデューザの脇腹に拳を突き入れると、相手がよろけたところに、渾身の力を込めた回し蹴りを見舞った。

 デューザは地面に叩きつけられると、激しく咳込み、大量の血液を吐き出した。

 タスクは立ち上がろうと試みたが、体中が悲鳴を上げ、うまく力が入らない。その隙にデューザは起き上がると、タスクに殴りかかろうとした。

「あ、危な……!」

 フィルトが叫ぶ。デューザの攻撃を避けようとしたタスクの側面から、燃え盛る丸太が彼に迫っていたのだ。

 しかし、タスクは冷静だった。視界の端に、その丸太を捉えていたのだ。未だ鼻から垂れる血を、腕で拭う。掠れたような血の跡が腕にこびりついたが、それをせずに放っておくと体の筋を伝って首筋や胸や腹に向かって流れていくのだ。それだけならいいが、唇の隙間から口腔内に入り込んでくる血液は、唾液と混ざり合って、どうにも不快だった。

 タスクは一歩、後ろに下がって身を引いた。迫り来る丸太の熱気が、タスクの体を舐める。そのまま後ろにバランスを崩し、尻餅をついた、ふりをした。

 タスクの視界に、狂喜に歪んだデューザの顔が鮮明に写り込んだ次の瞬間、その顔が向かって右側に吹き飛ばされた。

「あっ!」

 今から何が起こり、それが自分の思い通りであると理解していたというのに、タスクは思わず声を漏らしていた。反対にデューザは、自分の身に何が起こったか、理解できていないようだった。眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、驚愕の表情を貼り付けたまま、重力には逆らえずに落下していく。声もなく小さくなっていく彼を、タスクは冷ややかな眼差しで見つめていた。

「ここから落ちたら、ひとたまりもないだろうな」

 背後でフィルトが呟く。その声が空気中に溶けて消えたころ、轟々と燃え盛っていた丸太の炎が突如として消え、真っ黒焦げに炭化した残骸が、地面に座り込んだままのタスクの頭上で揺れているだけとなった。

 ノーラの炎が消えた。即ち、デューザとの闘いに再び勝利したということだ。タスクはほんのしばらくの間、呆然としていたが、やがてそれを実感したらしく、ふうっと息を吐いて胸を撫で下ろした。

 丸太の炎は消え、むせかえるような熱気はなりを潜めたというのに、まだ体中が熱を帯びている。鼻の骨が折れているせいで、うまく息ができない。喘鳴のような口呼吸を行うが、鼻からの出血が口腔に流れ込んできて、ゲホゲホと大きくむせ込んだ。

「だ、大丈夫、か?」

 大きく体をうねらせて血を吐いたタスクを見て、フィルトは慌てて駆け寄った。体勢を整え、あぐらをかいたタスクの膝に、まだ止まらない鼻血が落ちる。フィルトはタスクの少し丸まった背中に手を添えて支えようとしたが「大丈夫だ」と払いのけられてしまった。

 タスクは座り込んだまま、前方を見据えた。折れた鼻はジクジクと痛むものの、苦痛にもがき苦しむほどではない。狭い足場が続くその先には、微かに出口のような空洞が見えるものの、暗い闇に包まれていて、何があるのかはよくわからない。

「なあフィルト、俺たちは何をさせられているんだろうな……」

 掠れた声で、タスクは呟いた。フィルトはハッとして、タスクの横顔を見る。そういえば、ミュウキがオレに教えてくれたのは、タスクが扉の向こうに落ちた後だった。それに気づいて、フィルトは「ごめんな」と前置きしたあとに、タスクに今自分たちが立たされている状況について、知りうる限りのことを話した。

 だが、フィルトですらも、ミュウキの言っていた「試練」とやらが、あとどれくらい続くのか分かっていない。これで終わりかもしれないし、さらなる困難が待ち構えているかもしれない。

「ひとつだけわかることは、いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいかないってことだな」

 タスクは、そう言って、手のひらで人中にこびりついた血を拭い、立ち上がった。

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