第二章⑩

 それは、リーレンがランロイの一人として、実際の戦いの場に同行するようになってすぐに起きた出来事だ。その戦いは、リーレンの故郷、リベジャリのすぐ近くで勃発したものであった。ヒノオはいくつかの都市や町、村が合わさって出来た国だ。その全ての場所に焼暴士が配置され、ラヨルの奇襲に備えている。つまり、ランロイも国土の各地に滞在しているというわけだ。

「お前はまだランロイとしての経験も技術もないに等しい。まずは前線に立つのではなく、後方に構え、戦況の全貌を把握できるようになりなさい」

 まだ、少年と青年のはざまの、声変わりを終えたばかりのリーレンに、師匠であるアイゼンがかけた言葉だった。

「承知しました」

 言葉では素直に頷いたリーレンだったが、内心は不服だった。おれだって前線で戦える。もうおれにはその力がある。

 それが自分の驕りであると痛感したのは、直後のことだった。アイゼンがリーレンをその場に残し、前線の焼暴士たちに加勢にいったあと、彼は兄弟子のキャトルと共に、負傷した焼暴士たちの救護にあたっていた。

 キャトルの後について、リーレンは焼暴士たちに治癒の呪文をかけていく。キャトルはリーレンと違い、物静かな性格であったが、誰よりも優しく、普段からリーレンの面倒もよくみてくれる青年であった。

「大丈夫か、リーレン」

「ああ、どうってことねえよ」

 一度不貞腐れた心を、すぐに平常心に立て直すのは、当時のリーレンにとっては難しいことだった。キャトルの声かけに、ぶっきらぼうに答え、キャトルに背を向けて、彼から離れようとした。おれはもう、一人でも大丈夫だ。それなのに師匠は、いつまでキャトルとおれを組ませるんだ。焼暴士の過酷な戦闘にもついていけるように、体も鍛えた。そこらのひょろっこいランロイとは違う。

 燃え盛るノーラの炎。それを鎮めるために、焼暴士たちは血を流し、戦い続けている。ただ人を倒すだけならば、なるべく自分が傷付かぬよう、立ち回るのが普通だ。だが、焼暴士の戦いは違う。炎を消すために、傷つくことを恐れてはならず、相手をも倒さねばならない。

 ノーラの炎の勢いが弱まり、延焼物が燻っている場所には、自身の限界を超え、戦闘から離脱した焼暴士たちが留まっていることが多い。すでにこと切れている亡骸が横たわっていることもあるが、まだ息のある焼暴士たちを次々に救護するのも、ランロイの役目のひとつだ。

 キャトルの元から距離をおいたリーレンは、数人の焼暴士たちが座り込んで、ランロイの到着を待っている場所に足を向けた。

「あ、あの、大丈夫ですか?」

 リーレンの呼びかけに、仰向けに倒れていた焼暴士が反応する。上腕からの出血が激しく、投げ出された右腕が真っ赤に染まっていた。

「ああ、すまねえ」

 焼暴士の男は、リーレンを見て、安堵したような表情になった。リーレンがまだ駆け出しのランロイであるとは思ってもいないのだろう。戦場に立てば、経験の差など関係ない。誰もが等しく、自分の役割を担わねばならないのだ。

 それは、自らに降りかかる戦況にも、同じことが言える。熟練の者が生き残り、未熟な者が斃れるという決まりなどは存在しない。リーレンはこの戦いで、それを身をもって痛感することになる。

 リーレンは、淡々と戦場の中を駆けまわり、負傷した焼暴士たちの救護に勤しんでいた。ノーラの炎の熱気は辺りに充満し、ものや人が焼ける匂いが立ち込める。戦場となったのは、リベジャリの町を出た先にある海岸線の小さな集落であった。幸い、そこに住んでいる住民たちは、全員が素早く避難出来たため、その中の犠牲者はなかった。ラヨルと焼暴士同士の衝突は、集落の木造の建物を燃やし、互いに死者を増やしているだけの不毛な戦闘であった。

 リーレンは、自分の足元に伏せっている、まだ若い焼暴士の傷を呪文で塞いだあと、ふうっと短く息を吐き、空を仰いだ。額に流れる汗を、腕で拭う。若い焼暴士が、自分の血を使って、辺りの消火をおこなってくれたおかげで、リーレンの周りのノーラの炎は勢いを鎮め、炭化して真っ黒に朽ち果てた草木や建物が燻っているのみとなった。

 空を見たその一瞬、リーレンの視界の端を何かがよぎった。足元に何かがどさりと倒れる音がしたその刹那、リーレンは視線を下ろした。

(……え?)

 思考が止まる。戦場の喧騒を、聴覚が拾うのをやめた。すぐ近くの、若い焼暴士の苦しそうな息遣いも、急に聞こえなくなった。それほどにリーレンは動揺した。

 彼の足元に倒れ込んできたのは、兄弟子のキャトルであった。

「キャ、キャトル……!」

 やっとのことで絞り出した声が掠れる。キャトルは目を見開いたまま、仰向けに倒れている。半開きになった口の周りに、吐いたと思われる血がべっとりとこびりついている。キャトルが着用している服が、血に染まり、中でも右の脇腹の辺りの色が濃い。今もまだ、とくとくと出血が続いているようにみえる。

 リーレンはごくりと唾を飲み込んだ。いつもは無味のそれが、食道を通る際に酸味を撒き散らしていった。

(……どうしよう)

 口をへの字に曲げて、リーレンはキャトルと若い焼暴士を交互に視界に入れた。ランロイとして、焼暴士の命を助けることを優先しなければならない。だが、手負いの焼暴士の隣に横たわっているのは、自分の兄弟子だ。コーコーとキャトルの口から漏れる呼吸音に、彼の命の灯火が消えかかっている様子を感じる。リーレンが迷っている間にも、時は流れているのだ。

「僕は、大丈夫だから」

 その時、若い焼暴士が、口を開いた。リーレンとさほど歳も違わぬ彼は、ゆっくりと上体を起こして、三角座りの体勢になった。体を流れ落ちる汗が、陽の光を浴びて、テカテカと光っている。

「君の呪文のおかげで、傷口も塞がった。もう、大丈夫。ありがとう」

 若い焼暴士は、口許にこびりついていた血を指で拭うと、リーレンの顔を見て微笑んだ。彼が立ち上がると、赤く染まった上半身が否応なしにリーレンの視界に飛び込んでくる。その痛々しいさまに、リーレンは思わず顔をしかめた。

「見た目ほど酷くないからさ。じゃあ、僕は戦闘に戻るよ」

 若い焼暴士は、明らかにリーレンに気を遣っていた。リーレンの反応も待たずに、彼は背を向け、走り去っていった。前線に向かって、彼の足跡と赤い染みが点々と刻まれていく。リーレンは彼の背中を目で追っていたが、やがて喧騒に紛れて判別がつかなくなったあと、足元に視線を落とし、キャトルのそばにしゃがみ込んだ。

(早く、呪文を……)

 動揺して息が荒くなる。震える右腕を、もう片方の手で抑え、キャトルの脇腹に置く。リーレンは自分の手が、キャトルの血液で赤く染まっていくさまから目を背けないようにするために精一杯努めた。生暖かい感触が手のひらを覆う。自分の全身に鳥肌が立ち、背筋がひゅうっと冷たくなるのを感じた。

「ノ、ノウロウ……」

 消え入りそうな声で、リーレンは呪文を唱えた。傷口をなぞるのに、寸分でもたがえば、自らの身に跳ね返ってくる危険な呪文だ。激しく動揺し、震える手のひらで治癒を行うなど、自殺行為に等しいものだった。案の定、リーレンの体の震えが制御できなくなり、傷口をなぞる手のひらが大きくぶれた。彼の引き締まった脇腹の皮膚が裂け、そこから大量に血が噴射したのは、その時だった。

「ぐううううっあああああ!!!」

 思わず声が漏れた。激痛が全身を貫いたのだ。歯を食いしばっても、喉を越えてくる苦痛の叫びをとどめることは出来ない。リーレンは両手を開いた傷口にあてがい、芋虫のように丸くなってのたうち回った。

 ただ自分の手で傷口を抑えたところで、そこが綺麗に塞がるわけでもない。とめどなく溢れてくる鮮血が、彼の体を汚していくだけだ。

(やべえやべえやべえ……痛えよ痛えよ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……)

 リーレンの精悍な顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。体も、身につけている衣服も、どんどん真紅に染まっていく。意識が薄れていく。もう何も見ていないキャトルの目が、リーレンの視線とぶつかった。痛みにのたうち回る力も抜けてきて、やがて全身が弛緩していく。

(傷を塞がねえと……)

 リーレンは、キャトルの亡骸のそばに落ちていた麻の袋に手を伸ばした。それは、キャトルがいつも首から下げて持ち歩いていたものだった。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら、リーレンは袋の中を漁った。中に、傷口を縫合するための用具が入っているはずだった。

(……これだ)

 目当てのものを手にしたとき、リーレンは体を波立たせ、口から大量の血を吐いた。

(キャトルにもこれを使っていれば、あるいは助かったんだろうか)

 麻酔もなしに傷口を縫うのは、相当な覚悟が必要だった。ノウロウの呪文は、自身には使えない。しかし、これを行わなければ、自分はここで死を待つのみだ。生きるか死ぬかの二択ならば、大抵は生きる方を選択するだろう。

 リーレンはその時、それまでの生涯で一番の試練に立ち向かった。激痛に身を捩り、薄れゆく意識をなんとか保ち、傷口を塗ったのだ。途中、あまりの痛みに、嘔吐した。まるで体を侵食してくるものを、理性をかなぐり捨てて排除しようとしているかのようだった。涙と汗と、血と胃液で、全身は惨たらしく汚れた。それでも彼は生きることを選んだ。前線の戦闘が終わり、駆けつけたアイゼンに助け出されるまで、リーレンは意識を保ち続けたのだった。

 もう二度と、あんな情けない目に遭うわけにはいかねえんだ。

 リーレンはそれ以来、自らの鍛錬をより一層厳しく取り組むことにした。周りからは血の滲むような努力、と、一言で片付けられてしまったとしても、彼の努力は自身を裏切ることなく、実力として伴ってくれたのだ。


「おい何ぼーっとしてんだ?」

 ハッと我に返り、目の焦点を合わせると、リーレンの顔をミュウキが覗き込んでいた。

「い、いや、なんでもねえ」

 視線を彷徨わせると、ヴェルチも目を丸くして様子を伺っている。リーレンはヴェルチと目が合うと、ふっと微笑んでみせた。

 無知は恥だ。どんなに体裁を取り繕ったところで、自分の気づかないうちに、途端に誤魔化しは綻び出してしまう。何より、自分自身の中に巣食う不安感は拭えず、それに苛まれながら行動するのは、戦いの場においては、時に致命的な結末を招くことにもつながるといえる。見聞を広げること。そして、活かすこと。それは、かつての失態以来、この世界を生き抜くうえで、リーレンが最も大切にしている考え方だった。


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