第二章⑧


 体のバランスを崩し、そのまま穴に落ちていったタスクは、その体勢のまま重力には逆らえず、体をしたたか地面に打ち付ける覚悟を決めた。だが、穴の先にあったのは、鍾乳洞のような空間であった。水面に叩きつけられたタスクの体は、大仰な飛沫をあげて、水中へと沈んでいく。底の見えないその中で、自分が水中にいることを認識したタスクは、慌てて体勢を整え、水面を目指して泳いだ。

「ぷはあっ」

 水面から顔を出し、息を吐いたと同時に、タスクのすぐ近くで、再び巨大な水飛沫が上がった。水面が暴れ、タスクの顔にも大量の飛沫が降りかかる。バチャバチャと水をかき分ける音がして、やがて水面にフィルトの頭がひょっこりと現れたとき、タスクは安堵した。

「フィルト!」

 目が合い、声をかける。フィルトは「おう」と片手をあげて見せ、「どうやら死なずにすんだらしいな」と続けた。

「ああ」

 タスクは答えたが、体にまとわりつく水が、やけに冷たいことが気になっていた。水に浸かっている首から下を、冷気が刺すように襲ってくる。清涼剤をしこたま体に塗りたくられたかのような、じわりじわりと体力を奪ってくる冷たさだ。

「早く進もう」

 タスクは、自分の視界の前方に見える陸地を目指して、泳いでいった。


 陸地に辿り着き、地面に体を大の字に投げ出した二人は、しばらく息を整えることに時間を費やした。体から水滴が大量に滴り落ちていくが、残った気力も同じように流れ落ちていっているような感覚だった。

「おい、タスク」

「何?」

「早く進まねえと、リーレンとヴェルチを待たせちまうぞ」

「……うん」

 タスクたちは上体を起こして、立ち上がった。見据えたその先に続く、石で造られた通路は、人が一人、やっと歩けるくらいの細さだった。薄暗い空間を、峰のように奥へと続いている。その通り道でバランスを崩したり、足を踏み外してしまえば、暗くて見えない底へと転落してしまうだろう。血の匂いがする。空気の流れに乗って、タスクの鼻腔を撫でていく。まさかと思って、通路の脇を覗き込み、目を凝らしてみると、暗闇に紛れて人の亡骸が山積みになっているように見えて、鳥肌が立った。

「フィ、フィ、フィルトぉ……」

 思わず、後ろからついてくるフィルトを見て、弱気な声を出す。フィルトはそんなタスクを一瞥し、自らも少し身を乗り出して暗闇を覗き込む。

「大丈夫だ、落ちなけりゃいいだけだろ」

 不安そうな眼差しのまま、タスクはこくりと頷く。ここで立ち止まって、ただ恐れているよりも、先に進んだ方が懸命だと判断し、足を踏み出した。

 細道は、お世辞にも整備されているとはいえなかった。タスクたちが足をつけると、その重みに耐えられず、パラパラと砂塵が舞い落ちていく。時には、ひび割れていた通路がさらに亀裂を深く刻み、こぼれ落ちた石の破片が暗闇へと吸い込まれていった。耳をそば立てると、落ちていった破片や瓦礫が、何かの液体に受け止められたような音がする。暗闇に広がっているのは、先ほどタスクたちが泳ぎきったような深い水溜まりなのか、はたまた屍たちが垂らした血溜まりなのか。それを判別する術はなかった。


 大抵の場合、そのような場所で、何事もなく、容易く通り終える道などは無い。今回も例には及ばず、タスクたちの前に試練が立ち塞がった。

(風か……?)

 ここが塔の何階にあたるのかは分からないが、外界とは遮断された空間であることは確かである。そのため、自然の風が、タスクの肌を撫でることはあり得ない。それなのに彼は、首筋の辺りに、そよ風のような空気の流れを感じたのだ。

(っ……危ねえ!!)

 周囲に目を配ろうとしたその刹那、タスクが立っているすぐ右側から、何かが迫ってくるのが見えた。暗闇に紛れ、それは黒い物体のように、影しか見えなかったが、タスクは回避すべく、地面すれすれにまで体を伏せた。

「タスク!」「フィルト!」

 二人の声が重なったのと同時に、伏せたタスクの背の上を巨大な丸太の棒がかすめていった。それはまるで振り子のように、振り幅いっぱいまで動き終えると、加速してタスクの元へ再び迫ってきた。

「あれにぶつかると、お陀仏ってわけか」

 フィルトの声に反応して、タスクは体を起こした。前方を見ると、複数の丸太の振り子が等間隔に並んでいた。それぞれがばらばらの動きをして、二人の行く手を阻んでいた。振り子と振り子の間は、人間の体が一人分入れるほどの隙間しかなく、少しでもタイミングを見誤れば、たちまち餌食となり、打撃を喰らった体は吹き飛ばされるだろう。

「丸太を避けて進むだけなら簡単だが、まあ、そうはいかねえだろうな」

 そう言ったフィルトの頬に、乾ききっていなかった先ほどの水滴が流れ落ちる。彼はそれを腕で拭うと、パシンと拳を合わせて音を鳴らした。

「ほら見ろ、タスク。『如何にも』な奴が現れたぜ」

 目の前で揺れ続ける丸太の大群の向こうに、黒い人影が見えた。暗闇に目がなれてきた二人は、視線をそちらに向ける。

「黒い装束だ」

 ラヨルか? と、タスクは続けた。フィルトの方に視線を移すと、彼の表情がキュッと硬くなり、睨みつけるように人影を見たので、タスクも改めてフィルトと同じ方向を見据えた。

「ヒヒヒ」

 声がした。タスクやフィルトのものではない。だから二人は再び互いの顔を見合わせた。

 二人の声でないとすると、黒装束の声だろうか。タスクは拳を構えた。

「オマエたちを殺せばあ、オレはカイホウされるってよお」

 間伸びした喋り方の男だった。ヒヒッと短く笑う。聞き覚えのある声だと思ったが、タスクはまさかそんなはずはないと、自分の中に浮かび上がった考えを打ち消した。男が腕を大きく振りかぶったかと思うと、その手のひらの上にぼうっと青い炎が浮かび上がり、瞬時に火球となり、タスクたちに向かって放たれた。デューザの時と同じだ。火球はタスクたちの元に到達することなく、丸太にぶつかり、爆ぜた。

 男の狙いは初めから、それだったのかもしれない。丸太が次々とノーラの炎に包まれ、燃え盛るのを見て、タスクはそう感じた。

「さあ、死ねよ、とっとと死ねええええええ!!!!」

 男の装束のフードが捲れあがり、その顔があらわになった。炎の照度のせいで、はっきりとそれがタスクにも見えた。タスクの心臓が飛び跳ねたのと同時に、先ほど抱いた義心が確信に変わった。タスクの体が、脳が火照る。握りしめた拳の爪が、自分の手のひらに食い込む。「マジかよ」と、フィルトのつぶやきが耳に入ってきたが、それには答えず、怒りのあまり口から飛び出してきそうな雄叫びを堪えた。

 タスクたちの前に立ちはだかったのは、デューザだった。


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