第二章②

 リーレンの微笑は、一瞬にして引っ込められた。ニュートの肩越しに、リヒツの姿が確認できたからだ。彼は縦にも横にも広い体躯を左右に揺らしながら、どしどしとこちらに近づいてくる。

「うわっ、出やがった!」

 リーレンの声に、全員がリヒツの気配に気づき、そちらに視線を投げる。切れたこめかみから体に流れる血液を見て、タスクはぎょっとした。ぬめぬめと光るそれは、上半身に幾筋もの跡をつけて、重力に倣って流れている。見た目ほど重傷ではなさそうだが、それでも見たものの心をざわつかせるには充分だった。

 リヒツは、何かをおぶさっているようだった。後ろ手に回した腕と腰の隙間から、人間の足が垂れ下がってぶらぶらと揺れている。さらに首周りには、彼のものではない腕が絡みついていた。

「フィルト……?」

 タスクがそれに気づいて、リヒツに近づき、おそるおそる尋ねた。返事はなかったが、リヒツに背負われているのは、紛れもなく気を失ったフィルトであった。

 フィルトの全身には、打撃でできたものと思われる痣が、斑点のように広がっていた。

 リヒツはフィルトの体を地面に下ろした。先ほどまでタスクたちが忍びこんでいた建物の壁に、その背をもたれかけさせる。フィルトが意識を取り戻す気配はない。ただ、微かに胸が動いている。彼はまだ生きている。

 タスクはリヒツをキッと睨みつけた。その視線を感じたのか、リヒツもタスクを見据える。

「なんでっ、なんでフィルトをこんな目に遭わせたっ……」

 タスクはフィルトに詰め寄り、声を荒げた。拳をつくり、リヒツの鳩尾に叩きこむ。タスクの攻撃を受け入れたリヒツは、微動だにせず、タスクを見つめ続けていた。

「なんとか言えよっ! おいっ! おっさん聞いてんのか!」

「おいタスク、やめろ!」

 リーレンが、リヒツからタスクを引き剥がした。タスクは興奮していて、リーレンが全身を使って羽交い締めにしないと、すぐに振り払って、またリヒツに掴みかかっていきそうな勢いだった。

「離せよっ! リーレン、ぶっとばすぞ!」

「ちょっと落ち着けよ」

 タスクが闇雲にじたばたと暴れるので、リーレンは彼を止めるのに苦労した。ニュートも加わり、タスクをどうにか落ち着かせようとする。タスクがバランスを崩し、地面に倒れ込んだとき、リーレンたちも巻き添えを喰らった。

「いってえ……」

 リーレンが呟く。タスクは転んだ際に、ふっと冷静になったようで、上半身を起こしながら「ご、ごめん、リーレン」と声を震わせた。

「すまなかった」

 リヒツが重々しく口を開いたのは、その時だった。

「彼が、君たちと私を引き離そうとして、果敢に私に立ち向かってきたんだ。私も、彼と君たちを捕らえて、真相を知ろうとして、躍起になってしまった。大人気ないことをしたと、反省している」

「そんなことを思うなら、最初から突っかかってこなけりゃよかったじゃん!」

「私はどうも、ラヨルの事となると、頭に血が昇ってしまう性分らしい。本当にすまない」

 いい歳をした大人が、自分に頭を下げるものだから、タスクはそれ以上、リヒツを責める気になれなくなった。行き場のなくなった怒りが、しおしおと心の中で萎んでいく。その代わりにタスクはぎりりと歯軋りをしながら、地面を殴りつけた。

 その時、ううっと声がして、フィルトがピクリと動いた。タスクはバネのように飛び上がって、フィルトの元に駆け寄った。

「フィルト、フィルト!」

「ん? ……ああ、タスクか」

 目が覚めたフィルトは、そう言うと、全身の痛みに顔をしかめた。

「良かった、フィルト」

「大袈裟だなあ、なんで半泣きなんだよ」

「もう誰も、失いたくないから……」

 声を落として言ったタスクは、ちらりとリーレンを見上げる。リーレンはタスクを見て微笑むと、フィルトに向かって治癒の呪文を唱えた。

「助かった」

 体のダメージが癒え、フィルトは息をひとつ吐き出しながら立ち上がった。

「さすがランロイ」

 ニュートがヒュウっと口笛を吹いた。まだ万全の状態ではないフィルトが、少しふらついた。タスクとリーレンが、慌ててフィルトの両脇を陣取り、彼の体を支える。大丈夫だよと、フィルトが照れくさそうにはにかむ。その隙に、リヒツがヴェルチに近付いて、その首根っこを掴んだ。

「あっ!」

 ヴェルチ、タスク、リーレン、フィルトの声が重なった。タスクは再びカッとなって、「おい!」と叫んだ。しかし、リヒツの行動を阻止することは誰にもできなかった。

 リヒツは、ヴェルチの貫頭衣の裾を捲り上げた。火傷の跡が残る背中が、あらわになる。彼はしばらく考え込むように、それを凝視していたが、やがて肩を震わせたかと思うと、アハハハと高らかに笑い始めた。

「なるほどなるほど。こうきたか」

 リヒツが首根っこを捕まえていたせいで、ほとんど宙ぶらりんになっていたヴェルチの体が、地面に落ちる。尻餅をついたが、リヒツから逃れるために、痛みを堪えて、タスクのそばに駆け寄った。

「小僧、お前の背中に、ラヨルの紋章は確認出来なかった。……ともあれば、お前たちが行動を共にすることは不問にせねばならぬ。……タスク、フィルト。お前たちは存分に、焼暴士としての責務を全うせよ」 

 リヒツはそれだけ言って、タスク達に背を向けたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る