第一章⑳
「おい」
走りながら、リーレンがタスクに囁いた。「おまえら、こんなことをやらかしておいて、焼暴士の登録とやらはちゃんとできるのかよ」
「わからない。でも、もう後戻りはできないだろ。成り行きに任せるしかないよ」
この頃になると、ヴェルチは明らかに体力を消耗し、疲弊しきっていたので、タスクに背負われていた。タスクは、一人リヒツのもとに残ったフィルトのことを心配していた。あの男が、タスクたちの話に耳を傾けてくれるとは思えない。背中に紋章があるのかを見定めるまでもなく、ヴェルチがラヨルの民であると確信していた。そりゃあそうだろう。ヴェルチが潔白なら、躊躇わずに背中を見せるだけで良かったのだから。
「でもいつまでもこのままってわけには、いかねえだろ」
碁盤の路地裏を逃げまどい、追手を撒いたところで、リーレンはタスクに向かって叫んだ。立ち止まり、息を整える。そこには野良猫の先客が数匹寝転がったり、ごみを漁っていたりしていたが、三人が駆け込んでくると、猫たちは四方に散っていった。
「タスク様、リーレン様、僕に考えがあります」
タスクの背から降り、地面に足をついたヴェルチは、おずおずと切り出した。
「なんだよ、まさかおまえ、自分だけ囚われにいこうとしてんじゃねえだろうな」
「ち、違いますよ!」
慌てて否定したヴェルチを、リーレンは疑わしいと言いたげな眼差しで見つめた。
「順風満帆に旅をしようとしてたおれたちを早速巻き込んだんだ。ひとりで逃げ出すなんて、許さねえからな」
「申し訳ございません」
「うるせえ! さっさと考えとやらを聞かせろ」
「……はい」
ヴェルチはほんの一瞬ためらうように口をつぐんだが、すぐにタスクとリーレンを見上げて、話し始めた。
「ノーラの炎で、僕の背中の紋章を焼きます。そうすれば、紋章は消え、僕がラヨルであることをどうにか隠せるのではないでしょうか」
「でも、そんなことして、ヴェルチの命は……」
「紋章を燃やした後、お二人の力を少し貸してください。ご存じの通り、ノーラの炎は人の血でしか消えません」
「タスクの血で火を消して、おれがおまえらに回復呪文を打てばいいんだな」
「そのとおりです。どうかお願いします」
リーレンは辺りを見渡した。追手に自分たちの居場所は、まだばれていない。道の両側に建っている建物は、どうやら廃屋のようだ。壁に枯れかけた蔦が生い茂り、窓ガラスに大きな蜘蛛の巣が貼っている。埃が溜まったガラスの向こうは、汚れがひどくて見えない。そして勝手口と思わしき扉の鍵は、どうやら壊れているらしい。
「それでいいんだな?」
リーレンの強い問いかけに、ヴェルチは深く頷いた。
「タスクは? このガキのために少々痛い思いをするんだぜ」
「俺は大丈夫」
「ようし、わかった。じゃあ、ちょっとこのボロ家を拝借するぜ」
リーレンの右手が、廃屋の壊れたドアノブに触れる。すんなりとは開かない扉だったが、リーレンが「フン!」と唸り、少し上に引っ張り上げると、甲高い軋み音と共に入口が姿を現した。長年放置され、蓄積された埃が舞い上がる。陽の光が当たり、それはキラキラと空中を浮遊していた。
三人は、廃屋の中に足を踏み入れた。再び扉を閉め、外と空間を遮断する。朽ち果てた室内は、何かが蠢いた気配がしたが、暗がりではよく見えなかった。おそらくはここに棲みついている小動物だろうと、タスクは思った。
ヴェルチは、貫頭衣を脱いで、それを綺麗に畳み、リーレンに手渡した。下着姿となったヴェルチの背中に、確かに紋章はあった。円の中に、轟々と燃え盛る炎を象っているように見えた。タスクがその紋章を見ていると、ヴェルチは後ろに両手をまわし、背中のちょうど紋章の辺りにかざした。
幼い少年が深く呼吸をする音だけが、廃屋の中に響いた。次の瞬間、紋章が青く閃いたかと思うと、彼の掌から紋章と同じ色の炎が放出された。それはすぐにヴェルチの小さな背中に燃え移り、勢いを増した。
「ぐっ……ううううう!!」
皮膚が焼けただれる激痛と熱気に、ヴェルチの目が見開かれた。苦痛に耐え忍ぶ彼は、二本の足で立っていることは困難だったようで、床に四つん這いとなり、やがて体を丸めてうずくまり、腕を噛んでいた。叫び出したい衝動を殺しているのだろう。
「タスク」
リーレンの呼びかけに、タスクは無言で頷き、うずくまるヴェルチの背中の上に自身の腕をかざした。ノーラの炎はヴェルチの背中を焼き尽くさんとばかりに、メラメラと吹き上がっている。
「リク!」
リーレンが錫杖の先を、タスクの腕に向けて呪文を唱えた。手首の皮膚が裂かれ、タスクの血液が、ヴェルチから噴き上がる炎に向かって落ちていく。やがて炎の勢いは弱まり、煙と共に焼けただれたヴェルチの背中があらわになった。
「ハァハァ……ありが、とう、ござい、ます」
息も絶え絶えに、ヴェルチは言葉を絞り出した。リーレンがすかさずタスクの腕を呪文で修復し、続いて錫杖をヴェルチに向け、同じ呪文を唱えた。おかげでヴェルチの背中の激痛は癒えていったが、紋章の代わりに残ったのは、大きな火傷の跡だった。
「これで僕は、ノーラを使えなくなりました」
「いいのかよ」
リーレンの問いかけに、ヴェルチは言葉に力を込めて、いいんですと答えた。
「ノーラを使えるラヨルが一人、いなくなったと考えれば、皆様にも好都合でしょう」
背中の紋章を失ったラヨルが、ノーラを使うことは叶わない。焼暴士の相手をするときは、それに気づかれてはならぬ。ヴェルチがマユルから聞いた教えの一つであった。
ヴェルチはリーレンが持っていた貫頭衣を受け取ると、いそいそとそれを着用した。リーレンの呪文の効力は強力で、火傷の痛みなどはなかったかの如く、布が皮膚に擦れてもなんとも感じなかった。
「タスク様、リーレン様、ありがとうございました」
ヴェルチは二人の前に直立すると、深々と頭を下げた。タスクとリーレンは互いに顔を見合わせて、はにかんだ。「良かったな。普通の人間に戻れて」
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