第一章⑮

 デューザ様とともにバリウの村へ襲撃に行くようにとマユル様に命じられたのが、僕の初めての任務でした。それまでの僕は、ずっとマユル様の身の回りのお世話を担っていたため、逃げ出すことはかなわなかったのです」

「けっ、じゃあおめえ、マユルの側近だったってことかよ」

「そのような表現が相応しいのかどうかはわかりませんが、リーレン様のおっしゃる通りかもしれません」

「じゃあ、俺が二ヶ月前にマユルと闘った時も、ヴェルチは近くにいたのか?」

 タスクが話に割って入る。あの時は、自分とマユル以外には誰もいなかったように思う。しかし、ヴェルチがマユルの側近としての役割も担っていたのだとすれば、近くに彼がいたとも考えられた。

「そういえば、マユル様はこの谷で一人の焼暴士の少年と対峙したと仰っていました。僕はその時、ラヨルの集落にいましたから、タスク様をお目にかかったことはございません」

「そっか、そうだよね。もしあの時、俺たちが会ってたら、流石に気がつくか」

 そこで会話が終わり、タスクたちは渓谷を越えることにした。まず手始めに、岸壁を伝って、谷底までおりるかたちとなる。

「うわあ……おれ、大丈夫かなあ」

 フィルトがヴェルチを背嚢ごと背負い、立ち上がったのを見ながら、リーレンは大きなため息をついた。

「オマエはタスクにおんぶしてもらえよ」

 フィルトがシシシっと笑う。「冗談じゃねえ」と吐き捨てると、リーレンは先に降りていったタスクを追いかけるように岩肌に足をかけた。

 慣れたもので、タスクはすいすいと下へおりていく。がっしりと岩の出っぱりに手足をかけ、身体を動かしている。

 リーレンは、しょっちゅうタスクの動きを観察しては、彼と同じ軌道に倣って、後に続いた。谷底の地面と垂直に反り立つ場所をおりていくのは、初めての経験であった。命綱をつけての訓練すらも行なったことはない。それでも、軽々とはいかないまでも、タスクの後についていけているのは、ランロイとしても、人としても、非常に優れた身体能力の持ち主であるリーレンだからこそ成せる業であった。それでも、ひとたび動作を間違えれば、谷底へ転落してしまう危険と隣り合わせだ。その緊張感を、リーレンは心の中で楽しんでいた。

 二人を凌ぐのはフィルトだった。ヴェルチを背負ってこの不安定な場所をおりるだけでも凄いのに、彼は熟練の軽業師のように足だけを使って足場を伝っていた。

「フィルト様、すごい」

 フィルトの首回りに腕を回し、必死にしがみついているヴェルチは、気が気ではなかった。垂直の絶壁を、まるで平行な地面であるかのように駆け抜けるフィルトだったが、彼に身を委ねているヴェルチにとっては、肝を冷やす他ない所業だ。

「死にたくなかったら、絶対にオレを離すんじゃねえぞ」

 ヴェルチの手足に、さらにぎゅっと力が入る。背負われている、というよりはしがみついているといった方が正しいだろう。フィルトの腕は、時折ヴェルチの体勢を整えてはくれるものの、大抵は絶壁を駆け抜けるための動作に費やされた。足場が途切れたところでは、そこから大木の太い枝の上に飛び降りたり、途中、大きく突き出している岩場の上に着地をしたりするためだ。ヴェルチの心臓はその都度跳ね上がり、一貫の終わりをも覚悟して、目をぎゅっと瞑ったりもした。そのせいもあってか、谷底におりたった時に一番冷や汗をかいていたのは、ヴェルチだった。

「あああ、ありがとうございます」

 再び地上に足をおろしたヴェルチの膝は、ガクガクと震えていた。すとんと尻餅をつき、はあはあと荒い呼吸を漏らす。

「お子ちゃまには刺激が強すぎたかあ?」

 リーレンがにやにやとヴェルチの顔を覗き込むと「フィルト様の行動が、僕の想像とは違っていたので、驚いているだけです」と虚勢を張った。

「もうちょっとスムーズにいけるようにならないと。やっぱりフィルトはすごいや」

「だな。オレみたいなおり方ができるようになってこそ、一人前だぜ」 

 タスクとフィルトは、やはり慣れていることもあり、いつもと変わらない様子で談笑をしていた。

 キオウ渓谷を流れる川は、上流に面している街の名前からとって、ヴァンダリン川と呼ばれている。渓谷の向こうに行くには、四人がこの川を渡らねばならない。

 流れの速い川だった。また、水深もそこそこあり、タスクが身体を水中に沈めると、水面がへその高さまで押し寄せてきた。

「流されないように、気をつけろよ」

 フィルトが、錫杖を背中から取り出し、歩行杖の代わりに水底をたぐりながら歩いているのを見て言った。ヴェルチはというと、今度はフィルトに肩車をしてもらっている。

「キレーな水だなあ。こんな状況じゃなけりゃ、魚とかを獲って遊びてえな」

 リーレンの足元に、川魚が数匹寄ってくるのが見えた。錫杖でつつこうとすると、魚たちは物凄いスピードで逃げていった。ひんやりとした川の水は、想像以上に身体に堪えるもので、太陽の光の温もりが非常にありがたく感じられた。

「リーレンは、どこの出身なの?」

 先頭を歩いていたタスクは、時々、素手で魚を捕まえようと、水と戯れていた。そのせいで、全身が水浸しだ。鍛え上げられた筋肉の筋を、幾筋もの水滴が滑り落ちていく。

「おれ? リベジャリ」

 タスクたちの住む国は、ひとつの大陸を統治している巨大な島国だ。国の名は「ヒノオ」という。リベジャリとは、縦に長い壺のような形をしている、ヒノオ大陸の最南端に位置する町の名だ。漁業が盛んな町で、住民の多くはそれを生業としている。バリウやキオへからは五日ほど南西に歩くとたどり着く海岸沿いの地域である。温暖で一年を通して常夏のような気候だ。リーレンの肌が浅黒いのも、リベジャリで育ったからなのだろう。

「だからさっきから魚を獲りたがってんのか」

「べ、別にそういうわけじゃねえよ。言っとくけど、リベジャリの住民が、全員漁師な訳でもねえからな」

 おまえらと違って、おれには職業選択の自由があるんだよと、リーレンは続けた。じゃぶじゃぶと音をたてて、川を渡っていく三人だったが、ちょうど中間地点まで進むと、水深が急に深くなった。三人の中で一番背の低いタスクは、胸の辺りまで水に浸かる羽目になった。

「流されないように、気をつけろよ!」

 水深が増しても、水の流れは変わらない。水底に足をつけることを諦めたタスクは、泳ぐことに徹した。背後からのリーレンの助言に「おう」と答え、腕で水をかいた。

「フィルト様、僕もおりて泳ぎましょうか」

「オレたちは慣れているから、ここを渡れるが、オマエは流されかねない。足を引っ張りたくないなら、このままオレにしがみついてろ」

「……承知しました」

 ヴェルチはせめて重心がぶれないようにと、体幹に力を込めた。この三人の中で、フィルトには一番信用されていないと、薄々勘づいていた。フィルトがヴェルチの世話を焼くのは、彼が一番体格がよく、体力もあるからだろう。不本意ながら役割を果たしているということだ。ヴェルチはせめて、三人には迷惑をかけないようにしようと、心に決めたのだった。


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