第一章⑭

 活気に溢れる露店街からひとたび離れると、あたりは途端に静寂に包まれる。連なっていた建物が途切れ、視界が広がると、前方にはキオウ渓谷が広がっているのが見えた。タスク達が立つ道の先は、キオウ橋へと繋がっている。四人の他には誰もおらず、渓谷に群生している木々がそよぐ音や、鳥の囀りがやけによく響いている。渓谷を渡る風が、四人の身体にも吹きつける。タスクはぶるると身震いをした。

「タスク、大丈夫か?」

 タスクの様子を見て、フィルトは背後から声をかけた。二ヶ月前の惨状が、脳裏によぎる。タスクはこの渓谷でマユルと闘い、敗れたのだ。

「ああ、もう負けない」

 タスクがフィルトの心中を見透かしたかのような発言をした。フィルトと同じことを考えていたからだ。岸壁にこびりついた血の筋、全身を貫いた激痛、マユルとの圧倒的な実力差において感じた屈辱感。忘れられるわけがなかった。

「リーレン、ヴェルチ」

 タスクが、焼暴士ではない二人に呼びかける。

「俺たち焼暴士は、渓谷を越える時、橋を使うことは禁じられているんだ」

「へえ、なんでだよ」

 リーレンは目を丸くした。彼の着ている胴着が、風ではためき、褐色の脇腹があらわになる。タスクはそこに大きな傷痕があるのを見つけたが、気づかないふりをした。刃物か何かで皮膚を裂かれ、乱暴に縫い付けたような痕だった。

「もし俺たちが橋を渡っているときに、ラヨルの襲撃が来たら、必ず戦闘になるだろ。闘いで橋が壊れるのを防ぐためなんだ。この橋が渡れなくなったら、キオへに住む人たちは、孤立してしまうから、絶対に壊れちゃいけない橋なんだ」

「でも、橋を使わずに向こうに行くってことは、この谷を一旦下まで降りて、また崖を登るってことだよな」

「うん」

 タスクが頷いたので、リーレンは改めて渓谷の眼下を覗き込んだ。橋の長さを縦にして、谷底まで垂直に下ろしたとしても、まだ足りないほどの高さだった。崖は垂直になっているのではなく、凹凸も多く、また木々が生い茂っているから、それらに手足をかけて降りられないということもない。人が立てるような岩棚もあり、疲れたらそこで休むことも出来るのだろう。谷底には、川がせせらいでいる。ただし、一度でも手足を滑らせれば、命の保障はない。身体が谷底に転落しても、魂は昇天する羽目になるだろう。

「……マジかよ」

 リーレンは表情を強ばらせた。タスクとフィルトがここを降りるのならば、自分もそれに着いていくことになる。昨日、初めてバリウの村に赴いたときは、この橋を渡った。まさか焼暴士に、橋を使うななどという制約があることも知らずに。

「リーレンは焼暴士じゃないから、橋を使ってもいいと思うけど……」

「バカいうな。おれが橋を使ったとして、おまえ達が足を踏み外して怪我をしたら、誰がそれを治すんだよ」

 焼暴士とランロイは、常に行動を共にせねばならぬ。

 リーレンの師の言葉だった。戦闘においても、日常の生活においても、常に危険と隣り合わせになる焼暴士に尽くし、身を捧げよ。

「リーレンは優しいね」

「はあ? うっせーよ」

 リーレンが照れて、身体を震わせた。背の錫杖が、じゃらんと鳴る。

「で、ヴェルチはどうやって連れていくんだよ。まさか」

 背負うんじゃねえだろうなと言葉を続けると、フィルトが「オレがやる」とヴェルチの隣に立った。

「昔読んだ書物に『旅は道連れ』という言葉が載っていました。本来ならば良い意味なのですが、今のような状況にでも、使えそうな言葉ですね」

「ヴェルチは本を読むのが好きなのか」

「はい。物語は、僕を様々な世界へいざなってくれます。心とは裏腹に、ラヨルの民として振る舞わねばならなかった僕は、精神をよく物語へと逃避させていました。それが唯一の安らぎでもあったからです」

 ヴェルチは遠い目をして、渓谷の先を見つめていた。

「僕は十歳ですが、物心がついてからずっと、マユル様のもとで、ノーラの修行を行なっておりました。おおよそ七年になるでしょうか。大抵の者は、僕ほどの歳になると、ラヨルの民以外の人間を殺戮することが正義だと、教わり終えています。だから、焼暴士の皆様へ危害を加えることに、何の疑問も抱かないのです。しかし僕は、ラヨルの民に伝わるそのしきたりが、専ら荒唐無稽なものであると思います」

「なあヴェルチ。おまえはおれたちと出会った時から、ラヨルのことをこき下ろしているけどよ、なんでそこまで嫌な思いをしながら、ずっと今まで生きてきたんだ? 逃げ出すのなら、もっと前から機会があったんじゃねえのかよ」

 リーレンが両手を腰に当てて、ヴェルチを見下ろした。視線に気づいたヴェルチは、鼻をこすり、続いて頭をぽりぽりとかいた。

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