第一章⑪
「落ち着いたか?」
しばらくして、この場には似つかわしくがないほどの、優しい声がタスクの耳に飛び込んできた。リーレンだ。彼がタスクのそばにしゃがみ、幼子をあやすように背中をとんとんと叩いていた。タスクが腕の隙間から覗き見ると、リーレンの足の脛が、顔のそばにあるのが見えた。
目に残った涙を拭いながら、タスクは半身を起こした。泣き腫らした目で、気まずそうにクリュウを見る。
「……ごめんなさい」
掠れて、消え入るような声だった。クリュウはふっと笑みをこぼし、タスクの頭を撫でる。分厚い、大人の男の手のひらから伝わる温かさを感じ、タスクの目から、再び涙が一筋こぼれた。
「大丈夫。怒ってねえから」
怒りというより、クリュウは少し動揺していた。自分が足を失い、戦線から退く羽目になったことを、タスクのように考えるものがいたとは。感情のやり場を失い、自分に八つ当たりをしてきたことはわかる。タスクの発言が、普段の彼からは想像もつかないほど偏っていて、それでいて、他の者たちにも同じことを思うやつがいるかもしれないとクリュウに思わせてしまうほどには、衝撃的だった。
(命がある限り、オレだって闘い続けたかったよ……)
焼暴士を退き、商人となったクリュウは、当初、不甲斐ない自分への情けなさと、かつての仲間たちへの申し訳なさに、打ちひしがれた。周りの反対を押し切って、戦線に赴こうと躍起になったこともあった。だが、足を失い、義足では満足に身体を動かせない自分は、戦場においては邪魔者でしかないことを痛感した。当時の仲間たちに、頼むからもう焼暴士としての立場を退いてくれと、懇願された。自分を庇い、血溜まりの中に沈んだランロイの亡骸を目の前に、傷だらけの仲間たちに、クリュウが返す言葉はなかった。
それでもその動揺を、今まさに闘いの最中へ身を投じようとしている三人の若者たちに、悟られるわけにはいかないと、クリュウは考えた。
フィルトがふうっと息を吐き、タスクの眼前にしゃがみこんだ。「落ち着いたか?」
タスクは「ごめん」と言葉を落としたあと、手で目頭を拭った。
「いいか。ラヨルのせいで、オレたちは故郷を失った。大切な人たちも、みんな死んでしまった。悲しいとか、辛いとか、そんな言葉じゃ片付けられない目に遭わされてる。だけどな、その感情に押し負けて、他の人に八つ当たりをして、傷つけていいわけじゃない。……分かるよな?」
タスクはこくんと頷いた。大人に自分の行動をたしなめられて、反省している子供のようだった。
タスクが顔をあげると、フィルト、リーレン、クリュウが穏やかな笑みをたたえて、自分を見ていた。誰も、タスクの行動を咎めようとする者はいなかった。タスクはもう一度目頭を拭い、そろりと立ち上がる。「ごめんなさい」と頭を下げると、クリュウは「もういいよ」と苦笑した。
タスクの心中が気まずいまま、三人は店を後にした。クリュウは「道中に食え」と、食糧を包んで大量に寄越してきた。ありがたく受け取ったそれは、タスクの手にしっかりと握られていた。
「はー、おまえまじで暴走すんのやめろよなー」
「ごめん」
リーレンに肩を小突かれる。ぱちんと音がして、じんじんと鈍い痛みがはしった。
「もうしない」
タスクは猛省していた。バリウのことでは、自分でも驚くほどに感情が乱れてしまう。
いまだに信じられない。現実のことだとは思えない。村が滅ぼされてしまったこと。師が呆気なく逝ってしまったこと。当たり前だと思っていたあの光景が、一晩のうちに粉々に壊されてしまった。落ち着いたと思って油断していたら、不意に感情の波が押し寄せてきて、心にぽっかりと空いた穴を塞ごうとしてくる。しかし、自分でもどう言い表せばいいのかわからないその穴を埋めてくれるものは一向に現れず、心が修復されることはない。
どうして。
涙を堪えるかわりに込み上げてくるのは、疑問だった。どうして俺たちは命を狙われなければならない。どうして村を滅ぼされなければならない。どうして俺たちは闘わなければならない。どうしてどうしてどうしてどうして!
問うたところで、答えてくれるものはいない。自分の境遇が良くなるわけでもない。目の前の現実は、何も変わらない。
「おまえらと、ヴェルチの着替えを調達しないとな」
リーレンが歩きながら、タスクの横に並び、タスクの肩に腕をまわしてきた。元気づけようとしてくれているのだと、タスクは感じた。
「お、あそこに行ってみようぜ」
リーレンが指差したのは、キオへの町の中心部にあたる、露店が建ち並ぶ通りだった。なるほど、あそこに行けば、今自分たちが求めているものは一通り揃う。タスクとフィルトは、リーレンからいくらかの金を借り、焼暴士が着用する下衣を取り扱っている店に入った。
「なかなか様になってんじゃん」
買い物を終えた後、通りの入口で合流したリーレンは、手に紙袋を提げていた。中には、ヴェルチのための着替えが一式入っている。
タスクとフィルトは、血や泥などで汚れた下衣を、新しいものに交換した。それまでは純白の衣を身につけていたが、それだと汚れがかなり目立つということもあって、真紅の衣を選んだ。自身の皮膚を裂けば溢れ出てくる、血のように赤い色だった。実際に戦線に立つ焼暴士たちは、このように真紅か、茶色、もしくは黒の衣を身につけるのだと、かつてコトから聞かされていたことを思い出したのだ。
「じゃあ、ヴェルチを迎えにいくか」
「おう」
リーレンとフィルトの後ろに付き、タスクは足を踏み出しながら、自分が身につけた真紅の衣を見つめていた。
これを着るということは、ようやく自分はラヨルとの闘いの一線に立つのだ。二ヶ月前、キオへの谷で鍛錬をしていた最中に、マユルがタスクの目の前に現れた。見習い同然であったタスクは、それでも果敢に立ち向かった。結局はマユルにいたぶられ、歯が立たず、重傷を負った。もうあんな真似はしない。焼暴士としてラヨルと闘う。この手でマユルを討ち、命が脅かされる日々に終止符を打つ。たとえ刺し違えても、バリウの村のような悲劇は繰り返さない。
顔をあげ、リーレンとフィルトの背中を見る。自分より年上の二人の存在は、タスクにとって、とても頼もしかった。闘志がめらめらと湧き上がってくる。タスクはその時、ぽっかりと空いた心の空洞が、ほんの少しだけ埋まったような感覚に襲われたのだった。
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