序章⑤

「……ト!……ルト!!」

 耳元で、聞き馴染みのある声がこだまする。フィルトはゆっくりと目を開いた。滲む視界がやがて鮮明になってきて、眼前に心配そうに自分を見るタスクの顔が現れた。

「……タスク」

「良かった、生きてた。こんなところで倒れてるから、何かあったのかと思ったよ」

 うつ伏せの体を起こし、フィルトはゆっくりとあたりを見渡した。夜は明けていて、雨は上がり、朝陽が煌々と山々の間から顔を覗かせている。泥状の土が、地面に触れていた方の体にまとわりつき、下衣は雨水をたっぷりと吸い込んで湿っていた。体は冷え切っており、そのせいか小刻みに震えていた。

「立てるか?」

「ああ、すまない」

 フィルトは、何とか自力で立ち上がり、上半身や脚についた土を拭い取った。タスクが遠慮がちにそれを手伝ってくれる。

「昨日、むしゃくしゃしてて、ここで砂袋をひたすら殴ってた。師匠が来て、少し会話をした後、急に体の力が抜けて、意識がとんじまってたみたいだ」

「フィルトが?」

 タスクが驚いたようにうわずった声を出した。「いっ!」と顔をしかめて、腹を抑える。傷はまだ痛むようだ。

「ああ」

 タスクがラヨルの長、マユルにやられたと聞いて以来、胸騒ぎがおさまらないからだとは言えず、言葉を濁す。兄弟子としての虚勢だった。


 太陽の位置が山頂よりも高くなった頃、二人は集落に戻ってきた。両者ともに体調が万全ではないからか、歩くのに少し苦労したのだ。一晩中、生身を冷たい雨に打たれたフィルトは微熱を出していた。体が火照り、倦怠感が肉体にのしかかるように襲ってきている。今すぐに寝床に倒れ込みたかったが、泥まみれのままでは無理な話だ。

 集落のはずれには温泉が沸いており、村人たちはそこに石造りの建物を建て、大浴場として使っている。フィルトは重い体を引きずりながら、何とかそこまで辿り着き、全身の汚れを湯で洗い流した。

「おうフィルト、派手にやったな」

 朝風呂が日課となっていて、毎朝この時間になると湯船に使っているジャンが、明朗な声で言葉を投げかけてきた。齢は四十路と三つを超えた、中年の男だ。歳をとり、焼暴士を引退した彼は、この村で家畜の世話を担う大人たちの一人として生きている。かつてはフィルトのように引き締まった体つきだったが、現役を退き、酒を愛するようになってからは、腹にでっぷりと脂肪を蓄えるようになった。昔の面影は何処やら、丸々と肥った風貌をしている。

「タスクが重傷を負ったと聞いて、もっと強くならねばと思って、訓練をしました」

 まさか一晩中意識を失っていたとは言えまい。フィルトは自分の体調をひた隠して、笑ってみせた。

「聞いたぞ。あいつも災難だったなあ。まさかラヨルの長と闘う羽目になるとは」

「しかし、オレたちも焼暴士の端くれとして生きているからには、たとえ長といえど、負けることは本来許されないのでは?」

「タスクもお前も、それぞれが貴重な戦力のひとつだ。タスクが生きて帰ってこられただけ、幸運だったじゃないか。コト婆さんも、きっと安心しているだろうよ」

「はあ……」

 煮え切らない返事をしたフィルトは、ザブリと飛沫を撒き散らして、勢いよく立ち上がった。

「おや、もう上がるのか」

「はい」

 泥を洗い流し、湯に浸かったことで、フィルトの体は、大分張りが戻っていた。「失礼します」とジャンに言い残し、温泉を後にする。

 フィルトは、未だ心の中がもやもやとしていることに気づいた。

(オレは一体、何にむかついているんだ)

 もしも、ラヨルの長と対峙したのが自分だったなら。タスクよりも上手く立ち回れたのだろうか。前線で闘った経験は、指で数えるほどしかない。そんな自分が、どう考えてもラヨルの長に勝てるとは思えなかった。


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