序章④

 降りしきる雨の中、夜の集落に、男の雄叫びと、砂袋を打ちつける音が鳴り響いていた。

 フィルトだった。彼は長い間、ただ闇雲に砂袋に拳を打ちつけていた。集落のはずれに造られた訓練場だ。タスクが瀕死の状態で戻ってきてから、数日が経過していた。

 円形に囲われた、石造りの塀の中には、身体を鍛える様々な道具が並んでいる。さらに広場の中央には、鉄製の支柱が四方に立てられていて、その間を縄でできたロープを張った試合場を模した空間がある。戦闘員たちはここで鍛錬を行い、ラヨルとの戦闘に備えているのだ。屋根はなく、雨風は凌げない。フィルトの全身を隙間なく流れる水が、雨なのか、汗なのか、もはや区別はつかなくなっていた。

「乱心か」

 背後で声がして、フィルトは身体の動きを止めた。左の拳が砂袋に半分埋まり、空中で固まる。少しの間、フィルトの荒い呼吸音が、雨音と合わさって静寂を破っていた。

「し、師匠……」

 フィルトはそう言って、砂袋から拳を引き抜いた。ゆらゆらと揺れるそれを見ながら、顎に滴った水滴を拭う。振り返らなくとも、そこにいるのが誰だか分かる。聞き慣れた声だった。

 振り返ると、声の主は腕を後ろ手に組み、フィルトを見上げていた。眼光の鋭い老婆だった。背丈はフィルトの鳩尾あたりまでしかなかったが、見た目の年齢の割に背筋が伸び、直立しているだけだというのに、おおよそ組み入る隙はなさそうな雰囲気を漂わせている。白髪の髪を髷にして結い上げてある。

「貴様らしくもない。どうしたというのだ」

 老婆は、刺すような視線でフィルトを睨め上げた。フィルトの身体が硬直する。だらりと腰の横に垂れ下がった拳から、水滴がぼたぼたと地面に落ちた。

 老婆の名は、コトという。ラヨルの民に対応するべく生まれた武術である「イョウラ」の継承者であり、フィルトやタスクにそれを教えている、二人にとっては師匠にあたる人物だ。そして同時に、育ての親である。フィルトやタスクの親は、彼らが幼い時に、ラヨルの猛攻の犠牲になったのだ。二人に、その時の記憶はない。物心がついた頃から、二人は共に、コトのもとで暮らし、イョウラの修行を行っている。

「タスクが……ラヨルの長にやられました」

「ほう」

 コトは、息を吐くようにそう言った。フィルトの言葉に、動じる様子はない。

「命は助かったけど、かなりのダメージを負っています。今は村の救護室で休んでいるけど、結構落ち込んでいるみたいです」

「笑止。ラヨルの長を、そう簡単に討ちとれるとでも思うていたのか」

 コトは、弟子の惨状を憂うこともなく、冷たい声でそう言った。

「貴様共の技量でラヨルの長を討ちとれるなら、もうとっくにあの者共は滅びておるわい」

 フィルトは、雨に濡れそぼった拳をぎゅっと握り締め、コトを見下ろしていた。雨は止む気配をみせず、闇を濡らしている。

「貴様も焼暴士の端くれなら、その程度の事など分かっておろう」

「……返す言葉もありません」

 ここでもし、フィルトが「そんなことはありません。俺は絶対に、ラヨルの長を討ちます」と、声高らかに宣言していたとしたら、コトは彼との師弟関係を勘当していただろう。「出来ぬことは口にするな」「己の力量を知れ」とは、コトが弟子たちに口を酸っぱくして伝えている教えであった。

「焼暴士」とは、イョウラを駆使して、ラヨルの民と闘う者達の総称のことだ。イョウラは、人ならざる種族、ラヨルの操る邪術である「ノーラ」に対抗できる唯一の手段だ。ノーラで繰り出される炎は、人間が操る炎とは違い、水などでは消えない。この世界に生きる生物の中で、人間ほど生存本能に忠実な種族はいないだろう。かつては成す術もなかったノーラに対抗すべく、焼暴士として生きる者を選別し、イョウラを生み出したのは、誰あろう人間なのだから。ただし、そこに数多の犠牲と時間の積み重ねがあったということは、他ならない事実だ。

「いつ何時、ラヨルとの一戦があるか分からないのだ。己の感情にかまけて、闘いに万全を期せない状況を、自ら作るでない」

「……はい」

 確かに、長い間、雨の中で砂袋を打っていたから、フィルトの体力はかなり消耗していた。タスクの件で動揺を隠せずに、ここ数日、ずっと心がざわついているのも事実だった。

「師匠!」

 言葉少なに立ち去ろうとした師の背中に呼びかける。踵を返しかけたコトの足が止まり、その眼差しが再びフィルトを見据えた。

「……いえ、何でもありません」

 コトの鋭い眼光に気圧され、フィルトは口籠った。俯くと、顎から雨水が滴り落ちて、裸の胸に流れ落ちる。コトはフンと鼻を鳴らすと、そのまま立ち去っていった。

 フィルトはしばらくコトの後ろ姿を見送っていたが、やがてその体躯が膝から崩れ落ち、うつ伏せに地面に倒れ伏した。雨に濡れそぼったぬかるみが、フィルトの身体を汚す。空から落ちてくる豪雨は止む気配をみせず、冷え切ったフィルトの身体をますます濡らしていく。じんじんと痛む拳をぎゅっと握り締め、四肢を地面に投げ出したまま、彼はそっと意識を手放した。

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