第15話 思春期
田所茉莉子は1937年民間業者に『お金になる仕事があるから』そう民間業者に言われて朝鮮半島からやって来た。
慰安婦たちの年齢は10代の初めから40代までと多様であり、農村地域や貧しい家の女性たちが食堂の従業員、看護婦、女工などを募集するという言葉に騙され、性の奴隷にされた時代があった事は事実だ。
だが、ある証言者の話では民間業者が連れてきた慰安婦を使って商売をし、軍はそれを監督した。それ以下でもそれ以上でもないと証言している。
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1937年当時19歳だった「リ・ヨンジャ」は中国棗強の慰安所に配属された。
台湾は50年に及ぶ日本の植民地支配だった。 1894年の日清戦争の結果として下関条約で日本に割譲され、1895年から日本軍が台湾に侵攻して武力によって平定し、第二次世界大戦で日本が敗北した1945年まで50年に及ぶ台湾総督府の植民地支配を受けた台湾。そういう事もあり中国には日本軍慰安所が多かった。
慰安所の中は場所や国々によって異なるが、ざっとこのような場所だった。
大部屋をカーテンだけで仕切った割部屋にはカーテンに番号が書かれ、玄関で番号札を渡す仕組みにしていた。
また、有刺鉄線で囲まれた兵舎に収容されて寝泊まりしていた者もいた。 部屋には数枚のマットと時々ある洗面台以外には何もない。 多くの場合、これらの部屋は数人用で、場合によってはそれぞれ数メートルの余裕の部屋もあったという。
そして、仕事場慰安所だが、軍の駐留所でひとつの部屋をカーテンで仕切って軍人の相手をさせられた。カーテンで仕切られていたので何人ぐらいいたかはわからない。
そんな時に私は数日後から、軍隊のリーダー大将の専属にされた。今までは平均日に20人位相手にしなければならなかったので、それを考えたら、凄く楽になった。
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東京大空襲の被害状況
死者はおよそ10万人、焼け出された人は100万人にのぼると考えられている。
1945年3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲だった。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下した。これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たした。火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くした。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人。
木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなった。
この後も戦下は留まる事を許さず多くの犠牲を払った。
こうして広島市に1945年8月6日午前8時15分、長崎市に1945年8月9日午前11時02分原爆が投下され戦争は終結した。
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(日本軍大将だった木村は、戦後私を囲う力もなく、金に困りある男に私を売ったのです)
実は…将校というものは戦後就職に困り部下に頼ったという事例も多かったと聞く。その理由は将校は比較的年齢が高く、長い軍隊生活でつぶしがきかない。戦後軍隊が消滅すると、就職などに困るようになった。
こうして、同郷の親友だった家電大手「西沖電気」社長に泣き付いた。
この頃社長は妻を失い2人の子供が思春期の難しい時期で手を焼いていた。
大将だった木村は妻がいるので茉莉子が邪魔になった。金銭的に余裕が有れば妾にでもと思うのだが、状況がそれを許さなかった。
そこで考えたのが、田所から頼まれていたお手伝いを茉莉子にと考えた。
「誰か良いお手伝いはいないか?」
早速29歳の茉莉子は強引に車に乗せられ田所邸に向かった。
敗戦間もない1947年には、日本は著しい発展を遂げていたが、それでも…戦後の爪痕が至るところに残っていた。
そんな東京は発展著しいと言いながらも、まだ、東京大空襲で至るところ悲惨極まる状況だった。ご多分に漏れず田所邸も被害に遭い、次から次へ足場が組まれ修繕で家に入れる状態ではなかった。
到着してドアを叩くと田所が出て来た。
そこで、最近出来た東京で戦後初の喫茶店に連れて行ってくれた。
荒廃した日本で喫茶店が復活を見るのは1947年(昭和22年)頃からで、戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品を用いたGIコーヒーなどが提供された。一般にコーヒーが再び広まるのは、輸入が再開された1950年(昭和25年)以降となる。
喫茶店の中は発展著しいと言いながらまだまだ途上の、こんな時代にも関わらず喫茶店の中は満員だったが、それでも隅の席が空いていたので3人は、荒廃した日本には珍しいあの時代にしてはお洒落な喫茶店にほっと肩を撫で下ろした。
「あの~田所話していたお手伝いに、この女
どうだい?」
田所は普通女中だったら冴えないおばさんを想像していたが、あの時代はスタイルの悪い小柄な女性が多い中、スラリとした高身長に加え、小顔とハッキリとした目鼻立ちについついドギマギしてしまった。
「どうしたんだよ。田所…女中として失格かい?」
「嗚呼…イヤイヤ…あんまり美人さんで女中さんでは勿体ないと思って……」
「いえいえ、戦後のこんな食べる物にも事欠く時代に、伸び盛りの企業のお宅で住み込みで働けるなんて光栄です。どうか宜しくお願いいたします」
当然社長も大満足で早速一週間後から住み込みで働らける事になった。
子供たちは14歳の男の子と12歳の女の子だったが、丁度腕思春期真っ盛りで大変だった。
それは早速初日1日目に手痛い先制パンチを食らった。茉莉子は朝鮮人だ。食事は和食は余り好きではない。何を食べても朝鮮料理のようにパンチがない。可もなく不可もなくなのだ。
そこで自分が美味しいと思う朝鮮料理の数々を夕食に出した。
「マリだっけ?こんな朝鮮料理辛くて食べられない。ひょっとしたら朝鮮人?」
そう言うとガラガラ台所のガラス戸を開け、外に妹と2人して鍋ごと捨てた。
(嗚呼…いくら自分が朝鮮料理が口に合うからと言っても民族が違うと嗜好も全く違うんだ?これは大変!朝鮮人だと見破られない為にも絶対朝鮮料理は作らないで置こう。もし私が朝鮮人だと分かったら社長も今までの優しさはなくなるに違いない)
それでも…可愛いいものだ。妹光子はよく甘えてくれた。
(東京大空襲で母親を無くしていたので、余程寂しいのか、下のお嬢さん光子は私の腕や体に巻き付いて来て、学校の話をしてくれる)
一方の忠司は、思春期特有の無視を決め込んで話かけても完全無視だ。
だが、そんな時に茉莉子の下着が時々無くなる事件が起こった。
一体誰が?
そんなある日、高校受験で徹夜続きの忠司君の部屋に夜食の天ぷらうどんを11時頃に届けた。ドアを叩いたつもりだったが、聞き取れなかったのか、それとも…ラジオの音で聞こえなかったのか、何と言う事だ。茉莉子のパンティを口に加え匂いを嗅ぎながらマスターべ―ションをしているではないか!
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