第14話 茉莉子という女


 ある夜オリバーはステージが終わりシャワーを浴びてクタクタになり、ベッドに崩れ込むように深い眠りに付いた。


 深夜オリバーは甘くて豊潤な香りに誘われ目をうっすらと開けると…あの美しい中年に差し掛かった女性がオリバーのベッドに忍び込もうとしているではないか。


「寝るときにまとうのは、シャネルの香水、N°5だけ」という、実にセンシュアルな想像をかき立てるこの言葉。そうあのモンローの愛した香水の名言。 シャネルの香水、N°5だけ」を身にまとい生まれたままの美しい裸体でオリバーに抱きついて来た。


「一体…一体…何の真似ですか?僕はフィリピンからやって来たしがないダンサー兼演奏家です。奥様のような上流階級の奥方と関係を結ぶような身分では、有りません」

 

 そういうとその美しい女性を押し退けて眠い目を擦りながら部屋の片隅に逃げた。


「ホホホホ フフフあなたって本当に謙虚な方ね。こんなおばさん相手に『奥様のような上流階級の奥方と関係を結ぶような身分では、有りません』等と…よく言って下さいました。私はね、あなたのダンスと演奏をいつも食い入るように見ているの。あなたトランペット奏者らしいけど…それでも他の演奏家が休みの時は、ドラム担当の時もあるわね。その努力には感服しております。何故?そんなに惜し気もなく努力なさるの?あなた位ハンサムだったら女に苦労しなくて済むし…ジゴロを気取って貢がせたら楽なのに……」


「奥様なんて事をおっしゃっるのですか?それって相当クズではありませんか、僕は嫌です。それから…僕は…実は…実は…嗚呼…でも…こんな事言ったら…あなたのような上流階級の奥方は僕など見向きもしなくなります。こんな底辺の僕など……」


「あなた…確かに…私は現在は上流階級の奥様かも知れないけど…私の過去は人様に話せるものではないわ。『お金になる仕事があるから』そう業者に言われて朝鮮半島から従軍慰安婦として中国棗強の慰安所に連行され寝かされ次から次に日本兵の相手をさせられた。それこそ外出の自由はなく監禁状態、慰安所での生活は監視の目が厳しく、慰安婦の外出は取り締まられ、たとえ許されても決められた区域内での散歩ぐらいでした。逃げ出しても自分がどこに連れてこられたのか、また地理も言葉もわからない土地で行く当てなどありません。逃げても命の保証もありません。中には逃げ出したものの追っ手に捕まり、見せしめのためにひどい体罰を受けた慰安婦もいました。慰安婦には日本名がつけられ、着物や髪型も日本風にさせられました。慰安所には、昼間は下士官・兵が、夜は将校がきて、体調が悪くても生理であっても、拒否することはできませんでした。1日に10〜20人、多い時にはそれ以上の相手を強いられることもあり、病気になったり、性病に感染した慰安婦もたくさんいました。慰安所に入れられる女性は、最初に必ず性病検査を受けさせられましたから、性病は軍人からうつされたのです。「日本兵は部屋に入ってくると、軍刀を畳に突き立てて迫ってきました。言うとおりにしなければ殺すぞという威嚇だったのです。拒否するとひどく殴られて鼓膜が破れ、右の耳が聞こえなくなりました。わき腹には10数センチの軍刀による傷痕が、股の付け根にも深くえぐられた傷痕があります。多くの女性が当時は、傷を体に持っていました。暴力を振るう日本兵たちの前で、私達は何も出来ません。あまりに苦しくて自殺した女性たちもたくさんいました。慰安婦への監視が厳しかったのは自殺防止のためでもありました。人間らしく生きることができない、かといって死ぬこともできない生活は、まさに地獄の日々でした。そして終戦後私はある将校に気に入られ、妻を空襲で失ったある男性と付き合い出したのです。結局はその男性はよく働く子守りを探していたのだと思います。ところが、その男性はこんな慰安婦の私に夢中になりやがて結婚したのです。でも…私が朝鮮人で慰安婦だった事が分かると途端に毎日のように暴力が始まったのです。それでも、こんな私でも…あの男は私とは離婚は絶対してくれなかったのです。だから…あなたと似たり寄ったりって事よ。私の話はこれくらいにして、あなたの話聞かせて!」


「ところで…お名前を聞かせて貰えませんか?」


「嗚呼…私の名前は帰化して田所茉莉子です」

 

 確かにあの時代は朝鮮人に対する差別は半端なかったが、全くもってナンセンスな話だ。 日本人は日清日露と戦争に勝ち進み、我らこそアジアの頂点と勝ち誇っていたに違いない。


  だが、何も朝鮮人だけを差別して居た訳ではない。あの時代は天狗になり、アジア人全体を軽視していた感は否めない。他国と大差ないのに、何を勘違いしてしまったのか?


「マリコ…茉莉子さんですね。僕は日本人とフィリピン人のハ―フで第二次世界大戦で市役所は燃え尽きてしまい、日本が敗戦国になったのでフィリピン人から恨まれ、憎まれ山奥に逃げて母は戸籍を破って捨てました。こうして無国籍となってしまったのです。だから無国籍でも生きて行けるように必死に努力を重ねたのです。僕はコンプレックスで一杯なのです。その穴埋めの為に努力を重ねているのです」


「お互い最底辺の過去を持つ者同士仲良くしましょうよ❤️💋💕💖」


 そう言うとまたしても茉莉子夫人が、オリバーに近づき豊満な肉体をオリバーに刷り寄せ抱きしめ熱い💋口付けを始めた。


 我慢が出来なくなってしまったオリバーは夫人に身を任せて熱い夜は更けて行った。


 ☆★


 強制連行の事実はハッキリしないが、慰安婦たちの年齢は10代の初めから40代までと多様であり、農村地域や貧しい家の女性たちが食堂の従業員、看護婦、女工などを募集するという言葉に騙され、性の奴隷にされた時代があった事は事実だ。


  日本軍の敗戦後、多くの「慰安婦」が連行地に置き去りにされ、中には自力で帰国した女性もいたが、言葉や習慣が異なる土地に投げ出され、現地男性と結婚した女性もたくさんいた。


 中には心身に重い後遺症 が残った「慰安婦」たちは、不妊症や内臓疾患、女性特有の子宮の病気、性病の後遺症などで苦しんだ。



 ☆★

 実は…この女性は現在38歳で「西沖電気」の副社長夫人に収まっていた幸運の持ち主だった。


 1955年~1972年にかけて日本経済は、高度成長期に突入日本経済が躍進を遂げていた時代だ。

 

 1956年(昭和31年)、この時代を神武景気と呼んだ。日本初代の天皇とされる神武天皇が即位して以来、例を見ない好景気という意味で名付けられた。


 この好景気は、1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)における朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたために発生した。


1954年末から日本経済は神武景気といわれる好況期を迎えた。ちなみに1956年版の「経済白書」は「もはや戦後でない」と宣言している。



 1959年当時、人々のあこがれの的であった家庭電化製品時代のニーズを先取りした商品づくり神武景気の好況を一つの契機に、爆発的な家庭電化ブームが起こり、新しい電化製品が次々と登場してきた。1956年ごろには白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫は、「三種の神器」と呼ばれて人々のあこがれの的であった。


 家庭電化時代の到来をいち早く予測したパナソニックは、ラジオ、蛍光灯に続く本格的な電化製品として、1951年、洗濯機の生産販売を開始。発売当初は価格も高く、台数も出なかったが、量産によって価格を下げ、1955年には月産5000台を越えた。

 洗濯機の登場は、女性の家事労働からの解放、地位の向上を象徴するものとして、世の中に明るい話題を提供した。


 テレビは、1953年のテレビ本放送開始に先立ち、前年に発売した。その強力な情報伝達力によって、テレビは国民の生活と文化に大きな影響を与えることになった。とくに1959年の皇太子殿下と美智子さまのご成婚はテレビブームに拍車をかけた。


 1953年には冷蔵庫を発売した。これは前年に資本提携した中川電機(旧 松下冷機)が生産を担当した。当初は相当高価で、まだ一般家庭の需要に応じられるものでなかった。しかしその後、新工場の建設や市場の成熟があって、1960年には年産23万台を達成した。  






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