第9話 麗香に彼氏が⁉️
麗香とは小学生の頃は毎日顔を合わせていたのに寂しい限りだ。だが、私はゆかりを介して麗香の近況は折に触れ聞いて知っていた。
だが、そんな時にゆかりから朗報が届いた。必然的にゆかりとは校区が一緒という事で同じ中学に通い出したので、麗香の近況は耳に入っていた。
麗香のお陰でゆかりとはすっかり親しくなったので、なんとも嬉しい話しが、飛び込んで来た。それは麗香が夏休み皆に会いたいと言っていると言うのだ。
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最近はGMS(総合スーパー)やテーマパークの台頭で存在感低下の百貨店だが、かつては「小売の王様」と呼ばれて屋上にはミニ遊園地があり、定番の観覧車には家族や恋人、友達等と乗り、東京の街並みを一望して発展著しい街並みに感心しきりの人々もいただろう。また、街並みの余りの小ささに、在るものは一週するまでに必死で自分の家探しをしたり、また在るものは街並みの余りのミニチュアぶりに驚く😱❕ものも、恋人たちは勿論てっぺんでロマンチックにキス💋を等色々なドラマがあったに違いない。
祝日ともなればミニ特設ステージがお目見えして、ファッションショ―や歌謡ショ―等が開催され、庶民にとっての夢のパラダイスだった百貨店。
百貨店はもともと買い物の舞台であっただけでなく、かつては「行って時間を過ごすこと」が目的であり価値があるという側面もあった。劇場があり夢の国遊園地が屋上にあった百貨店が懐かしい。
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そうなのだ。私達は四人で行く場所を百貨店にした。丁度私が中学一年生の頃の百貨店は庶民の憧れの場所。ちょっと背伸びして行く特別な場所だった。
その日は運の良い事に人気のウルトラセブンが出演するミニライブショ―がありキャーキャー言いながらショーを見たのを今でもはっきり覚えている。
屋上でミニステージを見てキャーキャー声援を送り、喉がガラガラ声になったので慌ててレストランに飛び込んで、クリ―ムソ―ダを頼んだ。早速クリ―ムソ―ダが到着したが、品位も何もあったものではない。皆でクリ―ムにかぶり付きソ―ダを飲んだあの頃が思い起こされる。
それはそうだろう。願ってもない憧れのウルトラセブンに会えだけでも大感激なのに、ショ―を間近で見られて大感激で夢中で声援を送ったものだから喉ががらがら声になってしまった。
四人は慌ててレストランに駆け込んだ。もう恥も外聞もあったものではない。真夏の炎天下太陽の照り付ける中声援を送っていたものだから、クリ―ムソ―ダにありつけた時はあんなお嬢様麗香までが、体裁も考えずにスプーンも使わずアイスにかぶり付いていた。
「へへへ皆でやれば怖くない。フフフこの上に乗っている。アイスクリ―ムひと飲み出来る人。私やるから、皆もやって見て」
そういうと大きく口を開けアイスにかぶり付いた麗香。
「わぁ😃私もやるやる…」
「俺もやる!」
「俺も』
こうして全員がお行儀の悪いかぶり付きになった。
「ハハハ」
「フフフ」
「アッハハハ」
まだまだ子供だった四人は他愛ないことでおどけ楽しんだ。
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「買う」から「楽しむ」へ変貌を遂げた。
娯楽施設や食堂が他にないから百貨店が増えたのか、昭和の百貨店は、正にあらゆる娯楽を楽しめる憧れの「夢の国」だった。特に子供にとって魅力にあふれていたのは屋上だ。
1950年代後半から1970年代にかけて百貨店の屋上遊園地は、家族連れで大にぎわいだった。屋上には申し合わせたようにどこの百貨店もまさに夢の国“ミニ遊園地”が広がっていた。
大型デパートは、“買う”ところから“楽しむ”ところに姿を変えつつあった時代。
何か……現在のショッピングモールにも相通じるものがあるが、平日なら赤ちゃんをおぶい、坊やの手を引いた買い物途中のお母さん、昼休みのサラリーマン、OLが“遊び”に来る。土曜の午後から日曜日の午後にかけ、ビルの屋上は子供や親子連れで埋めつくされていた。
今では大半が姿を消した観覧車だが、最盛期には屋上遊園地の象徴だった「観覧車」。 更には、大阪・高島屋の屋上には「人工衛星」があった=1959年(昭和34年)5月の事である。
1950年(昭和25年)。には、日本橋高島屋の屋上庭園に、タイから像がやって来た。かわいい象のイラストが描かれ、名前募集との記載があった。こうして公募で選ばれた名前が高島屋の高を取って「高子」と名付けられた。
船で来日した子象はトラックで銀座をパレードし、クレーンで屋上へつり上げられ、初日には17万人が詰めかけたという。
「高子」と名付けられた象は、やがて背中に客を乗せて歩く“芸”を覚えたちまち人気者となった。あの当時は百貨店は当時の大人から子供までが熱狂した庶民の唯一無二の場所拠り所だったに違いない。
だが、残念な事に百貨店の屋上から遊園地が姿を消し始めたのは、70年代後半から80年代にかけてだ。街にゲームセンターやテーマパークが増えたことは、大きな理由だろう。70年代前半に百貨店火災が相次ぎ、防災上の規制が強化されたことも、大型遊具の設置を困難にしたようだ。
かつては、百貨店といえば、高級食品ばかりとのイメージがあった。最近はちょっと違う。スーパーに比べれば、高いものが多いが、数年前から各店とも品ぞろえに工夫を重ねた結果、個性的なデパ地下が多くなった。
地方の珍しい食品、エスニック調味料、こだわりの弁当、世界のデザート等々。最近では珍しいスイーツなどがテレビや女性誌で紹介されては人気を集めるようになり、「デパ地下」はすっかり定着した。
地方都市の郊外ショッピングセンターに人が集まるのも、突き詰めれば「何でもあるから」という理由が大きいのではないか。
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1970年頃日本は「高度成長期」といわれる時代で、私たちの生活にも大きな変化が表れた。おなじみの「マクドナルド」もこの時代に生まれた
マクドナルドは、1971年7月20日に東京の銀座三越1階に日本第1号店をオープンした。中学二年生になった四人組麗香と同じみの連中賢治とゆかりそれに私の四人で銀座三越に向かった。
「東京のど真ん中から日本の食文化を変える」。そんな願いを込め、1号店は東京の老舗百貨店・銀座三越の1階にオープンした。
だが、最初は全くお客が入らなかった。1時間誰も来ない日もあった。わずか45平方メートルの店舗には座席がなく、店先で立って食べるか、持ち帰るしかない。立ち食いは今よりも「行儀が悪い」とされていた時代。雨が降ると、開店休業状態になった。
雑誌で見て知っていた四人は当てが外れて買うのをためらったが、麗香のクラスには海外転勤の子女外国人の同級生も多く、海外ではポピュラーな食べ物🍔ハンバーガーを給食時間に頂いて食べていた。だから、麗香は(皆がなんと言おうとハンバーガーを押し通そう。頑として譲るものか!)と決め込んでいた。
「皆さま絶対買って食べましょうよ!」
麗香の鶴の一声で皆渋々買う事にした。
本来ならばデパートに折角来たのだからお洒落なレストランで食べられるところに、店内で立って食べるか、どこか地べたに座って食べるか、持ち帰りなんて考えられない。ムカムカムカついたが仕方ない。
怒れた三人だったが、大企業のご令嬢カ―スト最高位の麗香様には逆らえない。
こうして立ち食いはお行儀が悪いと分かっていながら、それを承知でた立ち食いした。
それでも…和食にはないボリューム感溢れる具材、ジューシーで香ばしいにおいと味が押し寄せ、口の中でとろけた。
それとフライドポテトにコ―ラの相性がぴったりであんなにイラついていたが、満足感で一杯になった。
安くておいしい。ハンバーガー。かぶりつくと中学の記憶がよみがえった。初めて食べたハンバーガーは、思いの他美味しくて感動した。
だが、この後私にとって最大の悲しい事件が起こる。
麗香が男子にコクられ「付き合おうと思っているの」と言ったのだ。いつかこんな日が来るとは思っていたが、想像以上に私の心は乱れた。
私はこんな苦しい思いをして、ただただ地団駄踏んで見て過ごす事ができない。麗香が他の男子と付き合う位なら、どんな結果になろうと勇気を出してコクろうと思った。
さぁどうなる事やら――。
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