第4話 母と息子

 麗香はある日、中年の女性に呼び止められて両親の死の原因を告げられた。


 それは余りにも衝撃的な話だった。そんな他人の話なんか?そう思ったのだが……。


 次の瞬間余りの衝撃的な真実に身体が震え、その場に泣き伏してしまった。


 いくら一度も会った事もない他人の話だとしても、家族の最も知られたくない秘密を知り尽くしていては、着いていくしかなくなった。


 一体麗香にはどんな秘密が隠されているのか?

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 フィリピンで貧困が生まれる原因には、次のようなものがある。急激な経済成長と産業の追い遅れ、地域格差、教育の格差、 自然災害。


 このような理由により、貧富の差が著しい国家である。フィリピンは極一部の富裕層と

在外フィリピン人労働者(OFW)からの送金の影響で近年発展著しい躍進を遂げている。だが、それは極一部の富裕層が底上げしているに過ぎず、貧困の状況は今も昔も余り差はない。

 

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 親が貧困だと子どもも貧困が引き継がれ、這い上がるチャンスがない。


 フィリピンミンダナオ島の田舎の人たちは 「働く場所がない」「働けても賃金が低い」「買える食べ物に限界がある」「栄養のあるものが十分に買えない」「栄養失調になる子どもが多い」そして、子どもが貧困のまま成長すると犯罪を犯すしかない厳しい現実の一方で、フィリピンが発展した理由。

 

 大きな原動力となっているのは、世界各地の出稼ぎ労働者からの送金である。フィリピンは、英語が公用語ということもあり、豊富な労働力を世界中に輸出しており、出稼ぎ労働者からの送金が国内の旺盛な消費に繋がっている。


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 ここに一組の親子がいる。そうなのだ。父の住む豊かな国日本に渡り、兄弟たちに仕送り目的で日本に渡ろうと考えている。だが、その前に無国籍の現状を打破しなくてはいけない。


「こんな貧乏なミンダナオ島では生活出来ない。豊かなお父さんの故郷日本に渡って戸籍復活させましょう」


「お母さんこれでやっと僕の無国籍問題解決出来るね!」


「本当にそうね。今のままでは、まともに生活出来ないものね」


 息子が無国籍なので息子だけ密航で貨物船で日本に渡り、母は現地人なのでビザがある。だから旅客船で日本に向かった。こうして日本で落ち合い父の行方を懸命に追った二人。

 

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 日本は戦後どのように復興したのか?

 民需転換の開始「(1947年春頃)軍需産業を民需産業に転換すること」。戦前までの 軍需面に傾斜していた産業構造を市場経済に移行し,危機的状況を脱して行った。

 

 更に追い風が。朝鮮戦争による特需景気が 1950年に始まった。アメリカ軍が地理的に朝鮮半島に近い日本から大量の軍需物資を注文したのだ。


 それでは何故アメリカが日本に注文したのかというと、1945年8月15日、日本が第二次世界大戦(太平洋戦争)に敗れ、朝鮮は日本の植民地支配から解放された。


 こうして米軍は韓国に、ソ連軍は北朝鮮を、38度線を境に朝鮮半島にそれぞれ駐留することになった。


 だが、1953年7月27日に休戦協定が結ばれ、分断が現在まで続いている。


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 日本は第二次世界大戦でアメリカ他連合国に、敗れ敗戦となった事で、この一時的な好景気を「朝鮮特需」や「特需景気」と呼び、日本の企業に大量に物資を発注したことで、経済復興を促進した。


 不況にあえぐ日本経済は、昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争を契機としてよみがえった。 特需景気と呼ばれる物資の大量需要が、企業経営を急速に立ち直らせ、新しい技術を海外から導入する契機となった。 こうして経済成長のための前提条件が整えられた。


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(1950年) 輸出の増加 戦後復興の過程で、大企業は中小企業を下請化したり、系列化したりして、国民経済を支配・主導する大企業体制を再構築した。 戦後の経済復興政策では、従来の経済構造の改革が実施された。具体的には、産業の非軍事化、独禁法の導入、財閥解体、 農地改革。


 ※「独占禁止法」は、正式には「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」といいます。 自由経済社会において、企業が守らなければいけないルールを定め、公正かつ自由な競争を妨げる行為を規制しています。


 こうして、戦後の日本経済復興のきっかけとなった朝鮮戦争特需は、企業経営の急速な立ち直りを促し、新しい技術の導入を可能にした。


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 高度成長期真っ只中の1950年代中盤にフィリピンミンダナオ島からやむなく密航で貨物船にこっそり紛れ込み渡った青年がいる。そして、母は現地人なのビザがあるので、船に乗り日本にやって来た。


 そうなのだ。父親が日本人で母親が現地人なのだが、戦時中日本兵士がアメリカの植民地フィリピンでやった残虐行為は、到底許されない残酷なものだった。それなので戦後は反対にフィリピン人たちによる、日本人に対する恨みが爆発して恐ろしい事になった。戦後ミンダナオ島では日本人だと分かると、それこそ酷い目に合うので山奥に逃げるしかなかった。


 母親とフィリピンに残され、身を守るために母親の姓を名乗り、人目を避けて山の中でひっそりと生きざるを得なかった。それは当時アメリカの植民地だったフィリピンは、終戦後。敗戦国日本の血を引いていることを隠すために、母親が婚姻契約書や出生証明書、洗礼証明書を焼いたり、市役所や教会が破壊されて書類が残っていなかったりして、身元を証明することが難しいためだ。戦争によって家族が引き裂かれ、このような経緯から無国籍の状態に置かれてしまった。


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 フィリピン経済は、1960~1990年代にかけて長期低迷に陥っていた。そんな事もあり父の住む経済成長を遂げる日本にやって来た母と息子だった。貧しいミンダナオ島の生活に困り果てて、経済発展著しい日本にやって来たのだ。


 折しも1955年には日本は高度成長期に突入。産業の発展に伴い人手不足が深刻化していた時代、1960年代に入ると子供たちは金の卵と重宝がられる時代になった。昔、中学卒は〝金の卵〟と言われ、東北など東京駅に向かう金の卵を乗せた列車は昭和29年から40年代まで続いた。


 典型的な集団就職の形態として、農家の次子以降の子が、中学校や高校を卒業した直後に、主要都市の工場や商店などに就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。


 当時は経済成長が著しく「金の卵」の存在は必要不可欠だった。人手不足だったので、新たな労働力は貴重であった。


 あれからもう半世紀以上経過したが、新卒者は再び「金の卵」的な存在になっているのではないだろうか。


 むかしと違うところは、少子化で子供が少ない事で人手不足を巻き起こしている。


 そして、この集団就職は一説には1955年(昭和30年)から始まったとされ、東北からは上野駅までの就職列車が運行された。就職先は東京が最も多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』がその情景を表しているとして有名である。


 上野駅などでは、中小企業経営者が駅に迎えに行き、就職者は就職先ごとにグループ分けされた。九州や沖縄県などの離島からは貨客船(フェリー)が運行された。



 集団就職は、地方公共団体などが深く関わって行われており、集団就職列車には、そうした組織の職員が同乗していることもよくあった。





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