第二十八話 忘れられたエメラルド(下)

 メムリーゼ様は先先代ファクタージュ伯爵の末の妹だった。先代伯爵夫人のイルメーラ夫人の義理の妹という事になる。十八歳で嫁入りしたイルメーラ夫人にメムリーゼ様はよく懐き、夫人は実の妹のように可愛がったのだそうだ。


 夫人が嫁入りした当時、六十年前のファクタージュ伯爵家は現在よりも勢いがあり、伯爵も次期伯爵も皇帝府で重きを為していたそうだ。時期的には先帝陛下の御代の前半で良いのかしらね。


 現在家勢が衰えてしまったのは、皇帝陛下の代替わりの時に現陛下の何か意向が働いたのかも知れない。先帝陛下の時代の雰囲気を刷新するために、側近の貴族を大幅に入れ替えるのはよくある事らしいから。


 先先代のファクタージュ伯爵には七子があり、長男が次期伯爵で以下、女女男女男女と生まれたらしい。つまり、メムリーゼ様は四女である。


 名門伯爵家とはいえ、娘を四人も嫁入りさせるのは容易ではない。娘を嫁に出す時は持参金を持たせる風習があるからで、伯爵家の嫁入りともなればかなり途方もない持参金が必要になってくる。


 そのため、四女のメムリーゼ様が格上や同格の家に嫁入り出来る可能性は低く、恐らくは格下の子爵、男爵辺りのお家に嫁入りする事が予想されていた 貴族の家で次女以下が冷遇されるのはこれが理由なんだろうね。


 ところが十七歳になったメムリーゼ様に思いもよらない話が舞い込んでくる。


 当時のヴィグセン公爵から愛妾に迎え入れたいという申し入れがあったのだ。これにはイルメーラ様もファクタージュ伯爵もメムリーゼ様ご本人も大変驚いたらしい。


 このお話の裏にはヴィグセン公爵が当時帝政の中枢に参画していたファクタージュ伯爵家を自家の勢力に取り入れたいという考えがあったのだと思う。愛妾愛人ですら純粋な愛情に基づかないんだから、貴族社会の人間関係は実に複雑怪奇よね。


 しかしながら悪い話でもないし、元々嫁入り予定もなかったメムリーゼ様である。ファクタージュ伯爵家はこれを受けたそうだ。しかし、イルメーラ夫人曰くメムリーゼ様はこのお話に乗り気では無かったそうだ。


「当時のヴィグセン公爵閣下はもう六十近かったですからね」


 もう引退間近のお方だったという事だ。


 貴族の愛妾は相手が引退したり死去したりすると扱いが微妙になる。サイサージュ殿下が亡くなった後のルレジェンネ様の処遇を見れば分かるけど、大体は家から出されてしまうのだ。


 引き続き次代の当主の方の愛妾として遇される事もあるけど、それも義務ではない。出戻りで実家に帰されるか、親族や家臣の家に嫁入りさせられる事もある。帝都を追い出される事もよくあることなのだそうだ。


 引退間近だと思われる(老いて亡くなるまで当主のままの方もいるから確定ではないけども)貴族の愛妾になる事にはそういうリスクがあるのである。メムリーゼ様が難色を示したのはそこだった。


 そして、更にメムリーゼ様の心証を悪化させる事が起こる。


「ヴィグセン公爵閣下が申込みの挨拶がわりに送ってきたのがこのエメラルドだったのです」


 ……ああ、なるほど。


 愛妾になって欲しいという申込みなのだから、言うなれば求婚のプレゼント、婚約指輪に等しいものだと言える。そういう重要な宝石にしては、このエメラルドの質は低めである。


 もちろん、かなり高価な宝石ではあるのだけど、卑しくも皇族が贈る品としてはかなり品質が劣ると言わなければならない。


 伯爵家の娘でしかも愛妾にする女性に贈るんだからこの程度でいいだろう、という考えが透けて見えるような石だと言える。そんな考えを持った人の所に愛妾として入っても、大事にされないだろうなと考えてしまうだろうね。


 メムリーゼ様もそう思ったのだろう。ヴィグセン公爵に愛妾入りする事を嫌がり、ゴネ始めた。しかし、ファクタージュ伯爵家としてはもうOKの返事をしてしまったので今更嫌だと言われても困る。


 当時の伯爵は当主権限でメムリーゼ様に命令して、嫌なら勘当すると通告した。これは当時の伯爵の事情を考えれば無理もない事だと思う。相手は格上、しかも皇族のヴィグセン公爵だ。いくら名門伯爵家でも逆らえない。


 しかし、納得しなかったメムリーゼ様は……。


「ある日忽然と姿を消してしまったのです……」


 なんと愛妾になるのが嫌なあまり、屋敷を出奔して雲隠れしてしまったそうだ。貴族令嬢としてはずいぶん大胆な行動である。末娘だったから奔放に育っていたのだろうか。


「……以来、五十年以上、メムリーゼからは何の連絡もありません。もう、生きてはいないものと諦めております」


 ファクタージュ伯爵家では慌てて随分と捜索に人を出し費用も費やしたのだけど、メムリーゼ様の行方は杳として知れなかったのだそうだ。


 結局メムリーゼ様の雲隠れでヴィグセン公爵への愛妾入りの話はおじゃんになり、その一件によりヴィグセン公爵からの心証を害した事で(それだけでは無かったにせよ)、ファクタージュ伯爵家の家勢は徐々に衰える事になってしまったのである。


 ……。なんとも悲しい話だと思った。


 結婚で、本人の意思が無視される事は珍しくない。相思相愛で結婚するなんて滅多に無いことであるくらいだ。


 それは結婚は家同士の結び付きを強めるために行われる事だからだ。本人たちの気持ちよりも家の事情の方が大事なのである。


 だからメムリーゼ様としてもそれが正式な嫁入りなら文句を言わずに輿入れしたに違いない。しかし、話が愛妾入りとなると話が違ってくる。


 嫁入りと違って、愛妾だと家同士ではなく個人的事情が大きくなる。そうなるとヴィグセン公爵が引退した瞬間両家の関係は切れてしまいかねない。


 そんな儚い関係の為に、四十歳以上年上の男性の愛妾になれ、と言われたメムリーゼ様が納得しかねたとしても無理もない。まして大事にする気はありませんよと言わんばかりの宝石を送ってきた相手だ。


 激怒して全てを投げ捨てて逃げ出しても責められないのではないか? 父親である当時のファクタージュ伯爵には貴族の末娘であるメムリーゼ様がそこまでやるとは予想できなかったのだろうね。


 しかしそれにしても思い切った行動だ。貴族令嬢なんて籠の鳥なんだから、何の伝手もなく帝都の街の中に飛び出して行っていきなり生活出来るとは思えないんだけどね。


 私が内心首を傾げていると、イルメーラ夫人が涙ながらに言った。


「そういう事情で、メムリーゼは我が家とは絶縁しております。この宝石は本来ヴィグセン公爵にお返しすべきものですが、当時紛失したという事で謝罪も済んでおります。今更当家でお預かりするわけにもまいりません」


 ガーゼルド様に預かってもらい、ガーゼルド様経由でヴィグセン公爵にお返ししてもらいたいと仰る。


「ヴィグセン公爵家としても今更返されても困るだろう。もう大昔で忘れられた話を思い返されても伯爵家も困るであろう。私としてはこれを預かっていた宝石商人に、預かり賃として渡すのがいいと思うがどうか?」


 ガーゼルド様の提案に、イルメーラ様もフェリソン様も同意した。確かにこんな曰く付きの宝石を所蔵したくはないだろうね。

 

 結局、メムリーゼ様の行方に何の手がかりも得られないまま、私とガーゼルド様はファクタージュ伯爵家を後にしたのだった。


  ◇◇◇


 私とガーゼルド様は翌日、リュグナ婆ちゃんの店へと事情の説明に向かった。昨日は貴族のドレス姿だったけど、今日は平民服だ。貴族の格好では帝都の下町なんて歩けないからね。


 狭い店の中で婆ちゃんは先日と同じようにニヤニヤと笑っていた。……その笑顔を見て、私は婆ちゃんは何もかも事情を承知で私たちをファクタージュ伯爵家に向かわせたんじゃないかしら、と思った。


 婆ちゃんならこのエメラルドがどこの産地でどの宝石商人を経由して、誰に売られたかなんて調べるのは簡単な事だと思うのだ。


 それをあえて私にやらせたのだ。これにはきっと何かの意味がある。


 私がファクタージュ伯爵家の事情を話しながらエメラルドの持ち主について説明すると、婆ちゃんはあっさり納得した。長年の悩みだったという割には簡単過ぎる。


「なるほどね。そういう事情があったのかい。それなら引き取りに来れなくても仕方がないね」


「伯爵家は、長年預かってくれていたお礼に、この石は婆ちゃんにやるって言っていたわよ?」


「さてね。そんな事情のある石ではね。売れるもんも売れないじゃないか」


 そんな事はないと思うけどね。指輪のままでは不都合だというのなら、磨き直して違う宝飾品に変えれば良いのだ。それほど珍しい石ではないのだから。


 しかし婆ちゃんはなんだか嬉しそうに笑って、手元の木片にペンで何かを書き付けた。平民にとって紙はなかなかに高価だから、メモなどのために木片を用意しておくのは商人なら普通の事だ。


 書き終えると婆ちゃんは私にそれを放り投げた。慌てて受け取ると、何やら地図のようなものが描いてある。


「そのエメラルドはその家の奴に渡しておくれ。ツケが溜まっているんでね。精算するのに丁度良い」


 二級品とはいえ、こんな大きなエメラルドを代金がわりにするなんて、どんだけ巨額のツケなのか。それに、お届け物なんて私の仕事じゃないわよね。


 私が不服そうにしているのを見て、リュグナ婆ちゃんはヒッヒッヒと笑った。


「届けてくれたら今度こそ例のトパーズの情報を渡そうじゃないか」


 約束が違う、と言い掛けて止める。リュグナ婆ちゃんは最初からそのつもりだったのだろう。私は渋々婆ちゃんの提案を了承した。


 ガーゼルド様はちょっと怒っていたけどね。


「何もそこまでしてやることは無いのではないか?」


 貴族に逆らった罪で牢屋に入れるぞと脅せば良いと仰る。ガーゼルド様は好奇心旺盛で寛容な方だけど、それにも限度があるという事だろうね。それと、私が侮られているのではないかと怒って下さってもいるのだろう。


「せっかくだから最後まで付き合ってみましょう。そう遠くもないようだし」


「……昨日までは君の方がうんざりした顔をしていたと思うのだがな?」


「そうですけど、あれであのリュグナ婆ちゃんは面倒見が良い人なんです。それと頭が良くて無駄な事はしない人です。その婆ちゃんが貴族の不興を買うリスクを犯してやらせるのだから、きっと何か意味があるのですよ」


 ふむ。とガーゼルド様は感心したように微笑んだ。


 絵地図で示されたのは、帝都の奥まった地域だった。ただ、治安はそれほど悪くない、裕福な市民が住む地域だったわね。レンガで護岸された細い川の側を進み、三階建ての町屋の一階。どうやら洋服の仕立て屋だ。針と鋏を意匠化した看板が軒下に下がっている。


 婆ちゃん御用達の服屋かな? と思いながら私は入り口のドアをノックした。


「はーい」


 すぐに返事があって勢い良くドアが開いた。出てきた若い娘さんを見て私は目を見開く。

 

 明るい茶色の髪に、深い青色の瞳。表情は明るい。私は思わず呟いてしまった。


「……メムリーゼ様?」


 娘さんはその呼びかけに首を傾げる。


「誰だいそりゃ。私はハンザっていうのさ。お客さんかい?」


 私は色々と悟った。瞬時に考えて言った。


「その、貴方のお婆さまに用があるのです。取り次いでもらえませんか? 大杉の方から来たと言えば分かるから」


 ハンザさんは当惑したような表情をしたが、一応は頷いて私たちを中に招き入れてくれた。


 そこそこ広い室内は完全に作業場だった。何枚ものロールになった布が積み上がり、型紙が散乱し、ハサミや定規や針や糸が作業台の上に散らばっている。トルソーに何着か出来かけの服が着せられていた。


 見た感じ、裕福な平民や下位貴族向けの服を仕立てているお店、もしくは工房だろう。そもそも貧乏人は新品の服を仕立てないので、洋服屋は富裕層向けの商売なのである。


 ガーゼルド様は興味深そうに作業場を見回して言った。


「ふむ。服はこうして作るのか。面白いな。で、君の見立てではどういう事なのだと思う?」


「それは……」


 私が答えようとした時、奥の扉が開いてハンザさんが戻ってきた。彼女の後ろにもう一人いる。


 私はあえてスカートの裾を持ち、優雅に一礼した。


「メムリーゼ様でいらっしゃいますね? 私、ジェルニア男爵の娘、レルジェと申します」


 ハンザさんが首を傾げる。


「誰なのよそれ? 家の婆ちゃんはリーザって名前なのよ?」


 孫娘であるハンザさんはその名前しか知らないんでしょうね。


 その方はおそらく年齢は六十五歳前後。背中は曲がっているけどまだそれほど老婆という雰囲気ではない。髪は明るい茶色で、警戒心をあらわに細められている目は青かった。


 彼女は慎重に口を開いた。


「……大杉からの使いだとか?」


「正確には違います。リュグナ婆ちゃんからツケを払うように言われました。これで」


 私がポケットからエメラルドの指輪を取り出すと、メムリーゼ様、今はリーザさんは目を丸くし、そして苦笑しながら首を横に振った。


  ◇◇◇


 リーザさんの家は一階が工房、二階が住居。三階は工房の弟子が住み込んでいる部屋らしい。私とガーゼルド様は二階に通された。


 リーザさんには夫と、息子と娘が一人ずついて、夫と息子は金物を扱う商人で別の所に店を出しているそうだ。娘は違う所に嫁に行ったが、リーザさんの跡を継ぐべく孫娘のハンザさんが弟子入りして、今はこの家の三階に暮らしているらしい。


 部屋の調度品は平民にしては高級で、かなり裕福である事が窺える。それでも伝統ある伯爵家の屋敷と比べれば雲泥の差だけどね。


 リーザさんはテーブルの上のエメラルドを指で転がしながらクスクスと笑っていた。


「あのババアめ。まだこんなもん持ってたんだね。とっくに売っちまったと思っていたよ」


 その口調に貴族令嬢の面影はない。それはそうだろう。彼女が出奔したのは五十年以上前なのだ。


「これはね。あのババアに売るつもりだったんだ。だけど断られた」


 リュグナ婆ちゃん曰く「こんな危ない宝石は買い取れない。だけど担保に金を貸してやる」と言ってそれなりのお金を貸してくれたらしい。


「その金で店を始めたんだ。確かにその礼にアイツには何着か服を仕立ててやったっけね。知ってるかい? 今はあんなババアだけど昔は美人でね。家の服を着てくれて良い宣伝になったものなのさ」


 宝石商人は裕福な平民や貴族相手の商売である。その美人店主が着ている服はそういう富裕層の目に入る事になる。その服の仕立てが良いという評判になれば、富裕層の顧客がそのままリーザさんの店のお客にもなるのだ。


「……お家を出られてすぐにお店を始めたんですか?」


 今はリーザさんの夫と息子夫婦は自分たちの店に出ていてハンザさんは一階の工房だ。他に聞かれる懸念はない。私の言葉にリーザさんは呆れたように応じた。


「無理に決まってるだろう? 当時の私は服だって自分で着られないお嬢様だよ。衝動的に家を飛び出したはいいけど右も左も分からない。途方に暮れたもんだ」


 愛妾入りが嫌なあまり、着の身着のままお屋敷を飛び出したのだそうだ。そのまま帝都を徘徊したらしいので、運が悪ければかどわかされてひどい目に合うところだたんじゃないかしら。帝都は良い人ばかりじゃないからね。貴族のお嬢様なんて悪人の絶好の獲物だ。


 しかし、帝都を歩いている内に思い出した。そういえば皇族のお方が最近帝都に修道院を作った事を。……それって。


「エルターゼ修道院ですか?」


「知っているのかい。話が早いね。その通りさ」


 まさか私の育ったところですよ、なんて言えない。私は貴族だと自己紹介しているので。


 一縷の望みを賭けてエルターゼ修道院に転がり込んだリーザさんを、院長様は黙って迎え入れ、かくまったのだそうだ。なんと私の大先輩だったとは……。


 それで二年ぐらい修道院で生活して平民の生活を学んだのだけど、当時から修道院長様は「こんな所に長くいるんじゃないよ! 早く出ていきな!」と言っていたらしい。それで気が付いたんだけど、院長様も元は皇族だったのよね? よく平民の生活に適応できたものだ。リーゼさんが修道院に入ったのは修道院が出来て数年は経っていたそうだけど。


 で、リーザさんは独立の為に服飾の技術を学ぶべく職人に弟子入りした。そして三年ほどで独立して店を構えた。もちろん、そんな早い独立が出来たのは例のエメラルドで得た元手のおかげだ。普通の平民は独立するまでに資金を貯めなきゃいけないからね。年会費が払えないとギルドに加入する事も出来ない。


 幸い、貴族の最新の流行と服飾のセンスを知っていたリーゼさんの仕立てる服は富裕層から好評で、すぐに商売は軌道に乗った。お客として来た男性と恋仲になって結婚して、今では半ば引退して後継者予定の孫を鍛えているという訳である。


 なかなか波瀾万丈な人生だと思うけど、リーゼさんは「私は幸運だったね」と言っていた。


「修道院がなかったら、あのババアが金を融資してくれなかったら、今の私は無かっただろうよ。運が良かった」


 確かにそれはその通りだろうけど、何もかもリーゼさんの決断と行動力が呼び込んだものだろう。最初に実家の伯爵家を飛び出したから。修道院に居着かず商売を始めると決断したから。リュグナ婆ちゃんの融資の提案に乗る決断をしたから。だから今のリーゼさんがあるのだ。


 私なんてロバートさんのお店にいて、そこそこお金を貯めてはいたのに、なかなか独立する決断が出来なかったのよね。それは服屋と宝石屋では必要な元手が違うんだけど、それでも小さな商いから始める気なら独立出来ない事もなかった。お金を借りる事だってロバートさんの後援があれば出来たと思う。


 それをやらなかったのは臆病だったから。決断が出来なかったからだ。おかげで独立し損ねて、貴族皇族の都合に巻き込まれて、今や宝石商人としての独立なんて出来ない話になってしまっている。私にリーゼさんの半分も気概があれば、私は今頃宝石商人としてバリバリ働いていただろうね。


 ちょっと苦いものを噛み締めていた私を、リーゼさんはじーっと見ていた。そして言った。


「まぁね。今考えると早まったとは思ってるよ」


 意外な言葉に私は目を瞬く。


「飛び出したせいで実家にはえらいこと迷惑を掛けちまった。二度と敷居は跨げない。子供も孫も親には見せられなかった。こんな親不孝者がいるもんかね」


 リーゼさんは自嘲の色も露わに苦笑した。それは自分も親になり、子供の結婚や将来の事で苦労したからこその感慨なのかも知れない。


「実家に、お世話になった義姉に『元気でやってる』と伝えてもらう事も出来ない。私は貴族としては死んだものになってしまってるからね。幽霊みたいなもんさ。幽霊もね、なかなか辛いもんなんだよ」


 ……私も平民としては幽霊になってしまっているから、リーゼさんの気持ちは分らないでもない。私が押し黙っていると、リーゼさんは労るような視線を私に向けた。


「まぁね。逆に言えば幽霊になるつもりがあれば何でも出来るって事でもある。どうしても嫌なこと、やりたいことがあれば、幽霊になってしまっても良いんだよ。お嬢さん」


 う……。リーゼさんの青い瞳は私とガーゼルド様を見ながら意味ありげに笑っていた。さすがは年の功だ。どうも色んなものを見透かされている気がする。そして私は、リュグナ婆ちゃんが私をここに寄越した理由を理解した。


 私は貴族の、皇族の都合に絡め取られて、抜け出す事など出来はしないとすっかり諦めていた。ここのガーゼルド様のプロポーズを受け、受けるか受けないかしか道は無いと思い込んでいた。しかしながらここに、貴族のしがらみから幽霊になって抜け出した女性がいる。


 リュグナ婆ちゃんは「第三の道がそこにあるよ」と言いたかったのだろう。……いや、どうだろう。あの婆ちゃんがそんな人の良いことをするとは思えないけども。


 どうしてもガーゼルド様と結婚するのが嫌なら、皇族に取り込まれるのが嫌なのなら、逃げ出してしまってもいいのだ。その事に私は気付かされた。それはガーゼルド様の調査能力なら帝都に止まっていたらその内捕まってしまうかも知れないが、別に帝都に、帝国に拘る事は無いのである。宝石はどこにでもあり、私の能力と知識はどこででも有用だ。宝石商人として成功する自信はある。


 もちろん、帝都でしか暮らした事のない私が帝都の外で、外国で暮らすのは困難だろう。でも、リーゼさんが貴族から平民の世界に飛び出して成功するより大変な事だとも思えない。


 私が決断すれば、出来る。道はあるのだ。いきなり目の前が開けた気分になって、私は呆然とした。呆けた顔をしているであろう私を見て、そしてその後ろのガーゼルド様を見て、リーゼさんは笑っていた。


「よく考えることだね。お互いにね」


  ◇◇◇


 リーゼさんはエメラルドを受け取って「そうだね。孫が結婚する時に送ろうかね」なんて言っていたわね。


 結局、婆ちゃんの最初の説明は嘘八百だったわけだ。宝石の記憶を視てもそこまでは読み取れなかったのである。私の能力の限界を見透かしたような嘘のさじ加減は、さすがに婆ちゃんだわね。まだまだ当分あの人には敵わなそうだわ。


 私とガーゼルド様は夕日の中、帝都の街を歩いていた。もう少し行った表通りに馬車が待たせてあって、そこからは馬車で一度離宮に戻る予定だ。婆ちゃんにトパーズの話を聞きに行くのは明日以降になるだろう。


 私はなんだか随分すっきりした気分だった。


 ここ一年、私の頭をぐーっと押さえつけていたものが、ポロッとなくなったような心地だったわね。どうにもならない、どうにもできないと思っていたものが、実は私の気分次第でどうにでもなる事だった。その事に気付けたのは私の中では大きな事だったのだ。


 思えば、今回のトパーズの騒動では皇族や貴族の都合に振り回されて苦しんだ人に色々会ったものだ。


 でもその誰もが今では自分の道を選び、歩いているではないか。今の境遇を他人のせいにせず、自分に向き合って生きている。ルレジェンネ様も、院長様も、リーゼさんも。あれを見習うべきだと、私は素直に思ったのだった。


 そんな気分でいたものだから、私はガーゼルド様がリーゼさんの家を出てから全く声を発しない事に気が付いていなかった。私の後ろを黙って付いてくる。そして、もうすぐ馬車に着こうかというタイミングで彼が言った。


「私と、結婚するのは、嫌か?」


 ビックリした。私が振り返ると、ガーゼルド様がその秀麗なお顔に深刻な憂い顔を浮かべているのが見えた。


「? どうしてそう思いましたか?」


「……いや。どうも私は、君の気持ちも考えずに、君に意に沿わぬ決断を強いている、ような気がしてきた」


 ……今更そんな事に気付かれてもね。私は呆れたけど、彼もルレジェンネ様、院長様、リーザさんのお話を聞く中で、思うところがあったのだろう。


 ただ、私はもう自分が自分の意に沿わぬ決断を強いられているなどとは全然考えていなかった。


 だって、決断するのは私だもの。私が決断すればどうにでもなる。その事が分かったのだ。分かったのだから、何をどう決断してもそれは誰のせいでもない。私の、私だけの決断だ。


 その事が分かったから、気が付いたことが沢山有った。


「別に嫌ではありませんよ。ガーゼルド様」


 ガーゼルド様が意外そうに目を見開いた。


「貴方の元にお嫁に行けば、貴方はきっと私を幸せにしてくれるでしょう。その事はもう嫌と言うほど分かっていますからね」


 色んな事を取っ払って見れば、ガーゼルド様は男性として純粋に素敵だもの。人格、能力、容姿。どれをとっても優良物件そのもの。こんな男性に好かれて求婚されている私は本当に幸せ者だ、と思う。


「そ、そうか……」


 ガーゼルド様は心から安堵したという表情を浮かべた。それを見て、私は幸せだなと思う。この人は純粋に私を愛してくれているのだ。


「でも、もう少し待って下さいますか? もう少し、考えたいことがあるので」


「も、勿論だとも。私は君がその気になるまで、待つと決めたのだ。いつまででも待つとも!」


 勢い込んで言うガーゼルド様の、手を私はそっと握った。二人の視線が交錯して、お互いにニッコリと笑う。


 そして私達は手を繋いだまま、馬車に向かって歩き出したのだった。


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