第二十六話 孤児院の院長様
エルターゼ修道院は帝都の西の外れ、帝都を囲む大城壁のすぐ傍にある。
大城壁の周辺は帝都防衛のために空き地を広く取ってあったのだけど、ここ数百年の間帝都が攻撃されるような事がなくなった事もあり、その空き地になし崩しに住居用地になっていった。
修道院は本当に大城壁に近接する所にあり、おそらく大戦争で帝都が危機に陥った時には取り壊されてしまうだろうという話だったわね。だから土地が安かったんだって。私は大城壁の高い壁を見上げながら育ったのだ。
修道院というのは大女神様にお伝えする神職の方が共同生活を送る場で、エルターゼ修道院は女性神職しかいないので正確には女性修道院である。ただ、孤児院の子供には男の子もいるけどね。
修道院とはいうものの、帝都の中にあるんだもの、全く閉鎖的ではなく、結構近所の人は出入りしていたわね。家庭問題や金銭トラブルを抱えて逃げてきた女性たちを匿うような事もしていて、そういう女性を修道女にしたり他の修道院に逃したりもしていた。
孤児院があるのもそうだし、かなり変わった修道院だったと思うのよ。なにしろ修道院長は口癖のように修道女や孤児たちに「こんな所にいつまでもいるもんじゃないよ。早く出ていきな!」と言ってたからね。
その修道院長というのが修道院の名前にもなっているエルターゼ様だった。修道服を着た細身の長身。濃い金髪のグレーの瞳を持つお方だ。年齢は六十歳くらいだろうか。彼女は私を見とめるなり怒ったような表情をした。
「なんだい。レルジェじゃないか。出戻りは勘弁だよ。お前を置いとくところはもうないからね!」
顔を合わせるなりこれである。まぁ、そんな事を言いながらも、孤児は見返りを要求せず受け入れ、逃げ込んできた女性は夫が怒鳴り込んできても断固としても守るという慈愛に溢れた人物なんだけどね。
「お久しぶりです。院長様」
「ああ。久しぶりだね。で? 幾ら持ってきたんだい?」
私は独立してからも、修道院に定期的に寄付をしていた。出身孤児で余裕のある生活をしている者は、寄付をするのが孤児院で育ててもらった者の義務である。
「寄付は致しますよ。でも今日はそれ以外にもお話がありまして」
「ふん、そこにいる美男子との結婚話かい? それなら勝手に結婚すりゃいいさ。別に許可はいらないよ」
確かに孤児院長は私の親代わりになるので、結婚する時には孤児院長に許可をもらうのが道理だ。しかし私はブレゲ伯爵の養子になっているので、孤児院長の許可をもらう必要はない。
「いえ、そうではなくてですね。その、私がここに預けられていた時に持たされていたという宝石について、お話を伺いたいのです」
私が言うと院長様の目付きがぐっと厳しくなった。私を冷たく拒絶するような目付きで睨む。
「そんな事を知ってどうしようと言うんだい? もうそんな昔の事は忘れちまったよ! 今さらそんな事を知って何になる!」
かなり強めに拒絶された。院長様は確かに気性が激しく口も悪いお方だが、人の言うことを頭から拒絶するようなお方でもない筈だ。
私が困惑して立ち尽くしていると、私の背後から私を飛び越して声が掛かった。
「久しぶりでございます。エルターゼ様」
ガーゼルド様だった。私は驚く。初対面の挨拶ではなかったからだ。院長様は少し目を見開き、それからじーっとガーゼルド様を見た。
「……もしかして、グラメール公爵家の者かい?」
「はい。次期当主のガーゼルドです。エルターゼ様とはお祖父様の葬儀の時に挨拶をさせて頂きました」
院長様は苦虫を噛み潰したような表情でガーゼルド様を睨み、そして私の事も見た。
「まさかとは思うが、この娘を娶ろうってんじゃあるまいね? この娘は孤児だよ? 正気かい?」
「そのまさかですよ。そのために宝石を探しに来たのですから」
院長様は厳しい視線でガーゼルド様をグッと睨んでいたが、やがてやれやれというように首を横に振った。
◇◇◇
修道院の応接間に通される。応接間と言っても狭くて古ぼけているけどね。毎日孤児たちが掃除をしているから、私も何度も入ったことはある。だからお客として入るのは変な気分だった。
院長様がお茶の準備で出ている間に、私はガーゼルド様に尋ねる。
「院長様とはどういう知り合いなのですか?」
ガーゼルド様は少し眉間を揉むようにして考え込んだ後言った。
「あの方は父の叔母だ。グラメール公爵家出身なのだ」
……え? 私は呆然とする。院長様が公爵家出身? 初耳である。
「事情はよく知らぬが、私が生まれる前に修道女になったらしい。この修道院はその時に建てられたのだ」
なんとまぁ。私が育った修道院がなんと皇族の出身者によって建てられたものだとは。院長様はあんな感じなのでまさか貴族だなんて思ってもいなかった。でも、考えてみれば名前を冠した修道院なんてそう簡単に創れるものでもないわよね。
「なるほどな。サイサージュ殿下が自分の娘を隠すのにこれ以上の場所はないだろうな」
院長様はサイサージュ殿下の親世代に当たる。当然、幼少時から知っていた事だろう。お人柄も修道院を建てた事情もご存じだったに違いない。
……私がサイサージュ殿下の忘形見だなんて信じ難いけども、どうもその可能性が高まってしまったようだ。
院長様はお茶セットをトレイに乗せて戻ってくると自分で手際よくお茶を淹れた。修道院では自分の事は誰でも自分でするのが当たり前だ。院長先生は特に人を使う事を嫌っていた。そういう意味でも貴族っぽくないのよね。
「で、なんで皇族とレルジェが結婚するなんて話になってるんだい? レルジェ、あんた貴族にでもなったのかい?」
私はこれまでの事情を掻い摘んで話した。ヴェリア様の侍女になった事情からブレゲ伯爵の養子になって、今は男爵令嬢として帝宮で皇太子妃の侍女をやっている事も。
そしてガーゼルド様のプロポーズの話。それから色々事情は伏せてだけど私が生まれた時に持たされた宝石が、もしかしたら皇族の秘宝かもしれないという話もした。
院長先生は私の話を面白くもなさそうな表情で聞いていたけど、私が話し終えるとどことなくうんざりしたような表情で言った。
「なんでアンタが皇族の秘宝を持たされる訳があるのさ。アンタ、自分が皇族の生まれだとでもいうのかい?」
私は沈黙する。私だってそんな事は思ってもいないし信じてもいないのだけど。しかしガーゼルド様は微笑んで言い切った。
「ええ。私はそう考えています」
院長様がガーゼルド様を睨む。
「それはこの娘を娶る時に、貧民の孤児よりその方が都合が良いからだろう?」
「半分はそうですね」
ガーゼルド様はしれっとした顔で言って、更に言葉を繋いだ。
「しかし、色々調べた結果、その方があらゆる事情に矛盾しないと考えたからでもあります。その証拠が、レルジェが持たされていたというトパーズです。今、その宝石はどこに?」
院長様はそっぽを向いて機嫌悪そうに言った。
「知らないね。あんなもん、とっくに売っちまったからね」
そう。私もそう聞いている。随分前に聞いたのだ。
十歳になるかならないかという頃だったんじゃないかしら。何かの拍子に私が預けられた時の話になって、私が預けられた時に一緒に宝石が預けられた事を知った。
それで院長様にその宝石はどこにあるのかと聞いたのだ。その頃には私は宝石からは色んな映像が見える事を知っていたから、その宝石を見れば親の事が何か分かるのではないか、と考えたんじゃないかしら。
しかし無邪気に尋ねる私に、院長様は怖い顔をして言ったのだ。
「あの黄色い石はお前を不幸にする石だからね。売ってしまったよ」
と。その時は「まぁ、修道院は貧乏だから仕方がないよね」と思ったのだけど、今思えば院長様はお金のために売ったとは言わなかったのだった。
そして「黄色い石」とは……。
やはり「炎のトパーズ」である可能性が高まってきたのではないだろうか。いささか信じられないけど。
では院長様はどうして宝石を売ってしまったのか。元皇族なら炎のトパーズの名は知らなくても、帝冠に飾られるほどの宝石ならその価値を見抜いてもおかしくないのではないか。
そんな石を持たされた私の素性は、かなりの高位貴族だと判断出来た筈で、そんな子供の身分証明のための宝石を、院長様が勝手に売り払うなんて事があるのだろうか?
院長様は事情があって預けられた孤児を親が引き取りに来た場合、親をお説教をして、それから孤児を抱きしめてから優しく送り出したものだ。子供は本来親元にいるのが一番だと言っているのを聞いた事がある。そういう院長様が子供の身元保証である宝石をお金のために売るのは考え難いのではないだろうか。
だとすれば、院長様が宝石を売ってしまったのには理由がある筈だ。
理由ね。私は考える。修道院がどんなに経済的に困窮しても、院長様は預けられる子供を断ったり駆け込んでくる女性を追い返すことはなかった。院長様の優先順位は常に人優先、経営は二の次だったものだ。そういう観点から言うと、経済的に苦しいから私の宝石を売ってしまうということは無いように思う。
しかし、それ以外にあえて私の身元証明という重要な宝石を売ってしまう理由が見つからない。昔、孤児の一人が預けられた時に持っていたぬいぐるみを、ボロボロになっても破れてもずっと手放さなかった事があった。
院長様は黙ってそのぬいぐるみを繕い、汚れを落としツギを当てて、本人が捨てると言うまで直し続けてあげていた。孤児にとって親との繋がりの痕跡がどれほど大事なものかを知っていたからだろう。
そんな院長様が、私と親との繋がりを証明する宝石を売ってしまう。それは院長様らしくないし、それなのにあえてそんな事をしたのだとすれば、余程の
理由があるのだとしか思われない。
「お前を不幸にする石」
確かにあの時院長様はそう言った。どうして私がその石を持っていると不幸になるのか。
親との繋がりを証明する石が私を不幸にするなら、それは私が親元に戻ればきっと不幸になると院長様が考えていたという事だろう。なので私と親との繋がりを断ち切るために、その黄色い石を売ってしまったのだ。
なぜ親元に帰ると不幸になるのか。院長様は子供は親元に出来ればいるべきだと言っていたけど、虐待や売却が疑われる親には決して孤児を戻さなかった。孤児の幸せを最優先にする方なのだ。
つまり私は親元に帰ると、虐待相当の酷い目に遭うと院長様は考えたのである。一体その酷い目とは何か。私にとっての不幸とは何だろうか。
……私は院長様に尋ねた。
「院長様は皇族の方だったのだそうですね」
「……そんな昔の事は忘れたね」
「そんなお方がどうして修道女になられたのですか?」
「なんでそんな事が知りたいんだい。レルジェ」
怖い顔で睨まれたけど、私は腹を据えて言った。
「どうやら私も皇族にならなければいけないような雲行きなので、参考にしたいと思いまして」
隣でガーゼルド様が身じろぎするのが分かったけど無視する。別にまだプロポーズを受けると決めたわけじゃ無いですからね!
「バカな事を考えるんじゃないよ。あんたみたいな孤児出身が皇族になるなんて無茶苦茶だよ。断りゃ良いんだ」
「私もそう思いますけど、儘ならぬのも人生でございましょう?」
私と院長様は静かに睨み合った。昔は単純におっかない院長先生だったけども、今ならこの方が私たちの事を心底思い遣って育てて下さった事が分かる。
その院長様が私の不利益になるような事をする筈がない。宝石を売ってしまったのは私の為を思っての事なのだ。それは何か。私を不幸にしないため。私を面倒事から遠ざけるため。
私を不幸にしないために私の血筋を証明する石を処分したのだから、院長様は私の血筋を私が知る事が、私を不幸にすると思っていたという事になる。
……私が皇族だと知る事、知れる事を院長様は恐れたのだ。それによって私が不幸になる事を確信して、石を処分したのである。
その理由はおそらく……。
「院長様はご自分が皇族だった時に、何か不幸だと感じる事があったでのすね?」
私の言葉に院長様はハーッと長いため息を吐いた。
「皇族なんて碌なもんじゃない。まして皇兄とその愛妾の子なんてどんな扱いになるか分かったものじゃないんだよ」
その言い方で私はピンと来た。
「院長様のお生まれも似たところがあったのでしょうか?」
院長様は眉の間に皺を寄せた。
「相変わらず鋭いね。レルジェ。その通りだよ。私は父の愛妾の娘さ。実の母親が死んで、父の正妻の養子に引き取られたんだ」
貴族としてはさして珍しくもない話であるらしい。結婚は一人としか出来ないけども、それでは子供が生まれなかった時に家が絶えてしまう。なので貴族の当主は愛妾を何人か作り、子孫繁栄に努めるのが義務でさえあるという。
それと、家の事情で結婚出来ない貴族女性も少なくない。そういう女性を一族の当主が助けるという意味もあるのだとか。なので愛妾は基本的には一族の者から選ばれる。
愛妾と不倫関係は話が違うそうで、不倫の場合は非公開、秘密の関係として扱われるが、愛妾と正式に家が認定していれば妻とほとんど変わらぬ待遇になる。社交の場に伴うことすら可能になるのだ。
院長様の母親もそういうグラメール公爵の愛妾の一人だったのだそうだ。正式な愛妾だったので亡くなった後、院長様は正妻に引き取られ、公爵の娘として正式に認められたのである。
「建前上は、正妻の子供と私には身分差などない事になっていたさ。でも、あくまでそれは建前で、私は兄姉とは格差のある扱いを受けたもんだ」
部屋だとか衣服、食事だとか分かり易いものから、付けられる侍女の質や馬車のグレード、呼ばれる社交の格など細かいところにまで差別は及んだ。
院長様はその陰湿さに傷付き、うんざりしたが、一応は皇族扱いを受けてはいたし、十五歳くらいからは嫁入りの話も出ていて、嫁入りしてしまえばグラメール公爵一家とも縁が切れると考え我慢する事にしたそうだ。
そしてある侯爵家の嫡男と縁談が持ち上がり、本人同士も好意を抱いた事もあり、婚約がほぼ確定という所まで行ったらしい。
しかしそこで院長様の妹から横槍が入る。要するに院長様の婚約者予定の侯爵家嫡男に横恋慕したという事だ。彼女は父親に強固に侯爵令息との婚約を主張し、グラメール公爵も相手の侯爵家もこれに同調。結局、院長様の婚約は流れてしまったのだそうだ。
この話が社交界に広まると、院長様への縁談は激減してしまったそうだ。それはグラメール公爵が娘同士の争いを公にしないために、院長様の振る舞いに問題があったような説明をしたためだという。院長様は割りを食わされたのである。
卑しくも皇族の婚姻であるので相手が誰でも良いという訳には行かず、何回か話がおじゃんになった挙句、院長様の縁談は絶えてしまった。
このままでは一生気に入らないグラメール公爵家で嫌いな異母兄に面倒を見てもらわないといけないという事態に嫌気がさした院長様はグラメール公爵に交渉し、遺産分けがわりにこの修道院を建ててもらって修道女になったのだそうだ。
「公爵家の方でも厄介払い出来て渡りに船だっただろうよ。その後私はずっとここにいて、父と兄の葬儀の時にしか公爵家には帰ってない」
そのガーゼルド様にとってはお祖父様の葬儀で、彼は院長様を目にしたという訳である。
「レルジェ。騙されちゃいけないよ。皇族と言えば聞こえはいいがね。要は貴族の中の貴族さ。形式と格式と身分のしがらみでがんじがらめになった連中さ。そんなところに孤児育ちのあんたが行ってごらんよ。まともに扱われる訳がないんだよ」
実感がこもった言葉だったわね。院長様にそんな過去があったとは。そういう事情なら院長様が皇族を嫌っていて、孤児育ちである私が皇族になった時の困難を慮って、私が万が一にも皇族になんてならないように、証の宝石を処分してしまったというのは分からない話ではない。
もっとも私は皇族になんて別になりたい訳ではなく、なんかズルズルと穴の中に引き摺り込まれるように皇族に引き込まれつつあるんだけどね。ここの彼のせいで。
「どうだい。次期公爵。何か反論はあるかい?」
院長様が挑戦的に言うと、ガーゼルド様は顎に手を当てて少し考え込むような素振りをした。
「……先ほどのお話ですが、私が聞いているのと幾つか食い違いがございます」
ガーゼルド様の意外な言葉に、院長様は目を瞬いた。
「食い違い? どう言う意味だいそりゃぁ」
「まず、エルターゼ様が差別されたというお話ですが、おそらく勘違いだと思われます。貴族の家では嫡男長女とそれ以外の子の扱いに明確な区別があるのは普通です」
これは結構あからさまな違いがあるのだそうだ。そういえばヴェリア様も姉のエルフィン様とかなり扱いに差があったわね。院長様が特別に冷遇されたわけではないということだ。
院長様は当時の公爵家では兄姉に続く次女だったそうで、それならば兄姉とは扱いに差が出ただろうとの事。ちなみに妹は二歳下、弟は四つ下であり、院長様はその二人よりは良い扱いを受けていた筈である。
「貴族当主には愛妾の子がたくさんおります。それなのに皇族が自家で愛妾の子を冷遇するのは、そういう者達に印象が良くありません。ですから曽祖父も祖父もエルターゼ様を冷遇などしないと思います」
それは一理ある。皇族は貴族たちの模範にならなければ、貴族たちの反感や軽蔑を招き、帝国統治の不安要素に繋がるだろう。庶子出身の貴族の貴族の反感を呼ぶような事はなるべく避けるべきである。
「エルターゼ様はお母上がご存命の時は別邸で唯一のお子として大事にされていたのでしょう。それで、本家に入った時に待遇の差を感じたのだと思われます」
それはとりもなおさず当時の公爵が愛妾とその子を優遇していたということだ。つまり愛妾の子だから冷遇されていたというのは勘違いである可能性が高い。
「それと、縁談の件ですが、私の聞いた話では相手の侯爵家嫡男が公爵家に来た際にエルターゼ様の妹姫を見染めたのだと聞いています」
つまり院長様から心変わりしたという事だ。それでアプローチを受けた妹姫もその侯爵嫡男に惚れてしまい。当時の公爵閣下や公妃様の大反対を押し切って結ばれた、という話なのだという。
そのため、その妹姫はグラメール公爵家から絶縁されてしまい、その侯爵家とも今に至るまで付き合いがないのだとか。グラメール公爵家の怒りを買ったらその侯爵家はかなり貴族界での立場が危うくなってしまったんじゃないかしら。
悪評に関してはグラメール公爵家が流したのではなく、相手の侯爵家が自分たちを正当化するために流したのだろうとの事。
「お祖父様は亡くなるまでエルターゼ様の事を度々案じていらっしゃいましたよ。それで私はエルターゼ様の事を覚えていたのです」
何度も晩餐などの会話で名前が出たそうで、修道院を支援しようとして何度も断られたと嘆いていたのだそうだ。そういうわけでガーゼルド様は次期当主としてエルターゼ修道院の事は気に掛けていたのだそう。院長様が亡くなったら公爵家が運営を引き継ごうと考えていたらしい。
ガーゼルド様が私の出身孤児院を気に掛けていた、というのは私にとって新鮮な驚きだった。彼が私が孤児院出身だと聞いても一切気にした様子がなかったのはそのせいかもしれないわね。
院長様はガーゼルド様を厳しい目で睨みながら彼のお話を聞いていたが、やがて「ふんっ!」と鼻息を放った。
「どうだかね。あんたの話は伝聞だろ。私のは実体験だよ。どっちの信憑性が高いかなんて誰の目にも明らかだろうに」
「物事は、視点を変えるだけでその真の姿を変えるものでございましょう? 実際、この修道院の土地の所得には公爵家の取りなしがなければ実現しなかったと聞いています」
なし崩しに住宅用地になってしまったとはいえ、帝都城壁に近接したこの土地は公有地だ。そこにかなり広い土地を所得して恒久的な建物を建てる許可はそう簡単には出ない。しかし、娘を案じ、せめて帝都内にいて欲しいと願った院長様の父である公爵は、いろいろ手を尽くしてこの地に修道院を建てたのだそうだ。勿論、院長様に対して公にならないように。
「もちろん。エルターゼ様が信じるか信じないかはご自由に。しかし、グラメール公爵家は、いつでもエルターゼ様のお戻りを待っていることだけはご承知下さいませ」
ガーゼルド様の言葉に院長様は沈黙して返事をしなかった。そのご様子を見るにつけ、エルターゼ様にとってもガーゼルド様の語った事情は、多少は心当たりのある事だったのではないだろうか。でも、一度思い込んでしまった事、傷付いた心は簡単に癒えるものでもないわよね。今更納得出来るかと言えば、それは無理な話なのだろう。だからガーゼルド様も無理に説得はしなかった。
彼はその代わりに私をひょいと抱き寄せると、自信満々に明るくこう言い放った。
「私はレルジェを娶ります。我が妻とします。しかし、エルターゼ様が私が彼女を不幸にしたと思った時はすぐに仰って下さい。その時は私は自ら命を絶ちましょう。それを今ここで、大女神様とエルターゼ様に誓わせて頂きます」
院長様は胡乱な目付きで私とガーゼルド様を睨んで言った。
「良いのかい? 次期公爵。ここは一応修道院。神の社だよ? ここでの誓いは絶対だ。そんな事を軽々しく誓わない方が良いんじゃないかい?」
「なんなら誓約書も書きますよ。このガーゼルド・グラメール次期公爵。誓いに背くような真似は致しません。必ずレルジェを幸せにしてみせます」
……こうも堂々と本人を目の前にこんな事を言ってのけられるガーゼルド様の精神構造は一体どうなっているのかしらね。私は彼にかなり強く抱き寄せられながら、さすがにちょっと顔が赤くなるのを感じた。
私は彼が私が育った孤児院を目にして、私に対する接し方を変えるのではないかと心配していたのだ。しかし彼は汚くて狭くて古くさい孤児院を見ても、乱暴に走り回る孤児達を見ても、私への態度をこの通り全く変えなかった。やはりこの人は、私の感じている通り真面目で誠実な人で、私に対して本気でプロポーズしているのだ。
その真っ直ぐな思いはさすがに私の心を動かしつつあった。彼を信じても良いのかも知れない。愛しても、良いのかも知れないと。私はそっと抱き寄せてくるガーゼルド様に自分の身体を預けてみる。ちょっと心地良くて、なんだか涙が出そうになってしまったわよね。
そんな私を院長様は冷え切った目付きで睨んでいたが、やがて諦めたように表情を緩めて首を振った。
「処置無しだね。ま、大人になったあんたがどんな選択をしようと私が口出すことじゃないさ」
そう言いながらも院長様は額の前で聖印を切った。祝福を下さったのだ。
「ありがとうございます。院長様」
「だから。私には関係無いって言っているだろう。それで? あんたが持たされた宝石だったかね。あの石は例のババアの所に売っちまったよ。行方を聞くならあのババアに聞くんだね」
……あのババアというのはまさか……。
「リュグナ婆ちゃんの所ですか?」
サイサージュ殿下が炎のトパーズをすり替えるための宝石を買い求めたのはリュグナ婆ちゃんの店だった。そして、院長様がトパーズを売ったのもリュグナ婆ちゃんだという。
見事にループしたわけだ。しかしそれにしてもリュグナ婆ちゃんとは……。
帝都で私が宝石に関して敵わないと思える数少ない相手である。炎のトパーズの行方を尋ねても、簡単に答えてくれるとは思えない。
一難去ってまた一難。私は婆ちゃんのひっひっひっひという独特な笑い声を思い浮かべてげんなりしてしまったのだった。
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