第4話
人殺しの決意を新たに踏み出してみたはいいものの、街には依然誰もいなかった。動くものは風に流されるビニール袋くらいだ。涼風が吹き抜け、舞い上がった灰と砂が顔にぶつかる。時計がないから時間はわからないけれど、そろそろ夜が来るのだろう。赤と藍色がまじりあう空を見て、私はアジトを探すことにした。
柚希の状態を見るに、多くの人を食べる必要はないようだ。足の大きな傷はまだ皮膚がなく茶色く乾いた肉が露出しているが、そのほかの細かい傷はきれいに治ってしまった。肌は土気色で乾燥していて、眼球は濁ったままだ。生きている人とは言い難いが、ゾンビが身ぎれいな死体あたりにランクアップしている。あと数名人間を捕まえるまでに、政府に見つかってしまえば柚希は殺されてしまうのだろう。こんなに人気がなければ、人間を探すのも一苦労で何日かかるかわからない。こんな状態の町だ。他人の家をアジトにし拠点としても誰も咎めないだろう。
私は日が落ちる直前まで近くの家の家探しを続け、1階鍵のかかる浴槽がある家に決めた。秋口の日の入りは早く、家を探し始めてからあっという間にあたりは闇へ沈んだ。街灯が割れたり折れたりで使い物にならないし、誰も住んでいないから家から漏れ出る光もなくて、台車に乗せられた柚希が周りを見回す動きがかろうじて見えるくらいの闇だった。
自分の位置すらわからない闇になる前にアジトを探せたのは僥倖だった。割れた窓ガラスから入り込み、どうにか鍵のかかる浴室が1階にある家を見つけた。鍵がかからなければ私たちみたいな人間やゾンビの襲撃が怖くて安心して眠れないし、私ひとりの力ではこちらに噛み付こうとする柚希を2階へ連れて行けない。妥協の末、柚希は洗い場に座らせて、私は浴槽の中に丸まって寝ることにしたのだ。
「なんだかあったよね、殺し屋の映画で」
浴槽は冷たくて固くて寝にくい。殺し屋は落ち着くのかもしれないけど、私は眠れなかった。浴槽の中で座って壁にもたれる。柚希はこちらを見ているようだが、視線は定まらずあちらこちらに泳いでいる。
「スマホもないし、どうするのかね私たち」
声を出せば柚希はこちらを見る。空気の漏れるような声を出すことはなくなり、随分静かになってしまった。しばらく見つめあったのち、柚希はまた視線を泳がせる。首をぐるぐる回してあたりを見回す。手足も時々動かしている。私が縛ってしまったから、退屈なのだろうか。
どのくらい時間がたったのだろうか。浴室の小さな窓はまだ暗い。暇つぶしも何も無く、私は時々柚希に話しかけてこっちを振り向かせること以外することが無くなってしまった。暇になると不安が押し寄せてくる。家族はどうしているのだろうとか、人間は滅んでしまったのかとか、これからの生活とか。覚悟はしたはずなのに、不安がそれを萎えさせてくる。
結局、眠れたのは朝方だったように思う。浴槽にもたれたまま寝ていた私は、全身がガチガチに固まっていて立ち上がるのにも一苦労だった。小窓からさす光が柚希の頭頂部に降り注ぎ、血に濡れて油っこくなってしまった髪が光を反射しててかてかと輝いていた。
日はすでに高くなっていて、真上から降り注ぐ日差しは私の体力を奪っていく。学校でかき集めた乾ききった非常食をもさもさ口に運び、少ない水分で流し込む。きれいな水はとても貴重だ。台車に積めるだけ積んできたが、この旅路がいつ終わるかもわからない。アジトにした浴槽からも水は出ず、水道はストップしているようだ。柚希が人間に戻ったとして、食料不足水不足で共倒れは絶対に避けなければならなかった。
隣町の近くまで移動してみたが、何者にも遭遇することはなかった。中途半端に崩れたバリケードや焚火の跡が人が生活していたことを示している。何一つ情報源がないというのはなんと心細いのだろう。私は動かないスマホを恨めしく見つめる。見つめたところで動くことはないのだが。今更機械への依存を考えてもしょうがない。しかしいままでスマホに支配されていた視界と聴覚は、今はずいぶんと感度が良くなっているらしい。
私たち以外の足音がするのだ。台車を引くガラガラとうるさい音に交じり、私が交差点で道に迷うたびに少し遅れて止まる足音がある。こういう時は気取られてはいけないと、柚希が話していたな。
「誰かにつけられている様子なら、相手が野生動物であれ、危険人物や幽霊であれ、こっちが気が付いたとわかった瞬間から戦闘に移行してしまうから。たっぷり対策を考えて、こっちのタイミングで戦うなりするの。」
多分人数は1人、規則正しい足音だ。生きている人間なのだろう。武器を持っていたらどうしよう。
「強い武器をもっているならもう仕掛けてくるはずだよ。大丈夫、君ならやれるよ」
頭の中の柚希は明るい笑顔で好き放題励ましてくる。一晩寝ると萎えてしまった覚悟を奮い立たせ、私は見晴らしのいい交差点で立ち止まる。そしてじっと待った。こちらにかけてくる足音が聞こえ、振り向きざまに斧を振り抜いた。
「ギャッ!」
斧に強い衝撃があり、私はつい手を離してしまう。相手は離した斧ごと吹っ飛び、地面に倒れていた。相手は髪の長い女性だった。斧は脇腹に半分ほど刺さっていて、彼女は口から血を吐き虫の息だ。こちらまでヒューヒューという呼吸の音と、口を開くたびに流れるゴボゴボという音が聞こえる。彼女の手にはへしゃげた野球用の金属バットが握られている。しかしもうこちらへ立ち向かう様子はない。刺さる斧を必死になって抜こうとする彼女を一瞬止めようかと思ったが、一足遅く斧は抜かれてしまった。傷から血が噴き出し、彼女の顔は一気に青ざめ、もう助からないとわかった。ほとんど動かなくなってしまった彼女に近づく。なぜ斧を抜かないように言おうと思ったのか。自分が殺そうとしたのに、助けようとした。矛盾だ。動悸が聞こえる。体全部が心臓になったようだ。私はついに、自分の手で人を殺してしまった。
動揺のまま、私は柚希の縄をほどいて殺した女性の所へ連れてきた。柚希は表情一つ変えず、彼女を食べ始める。胸が悪くなるその様子を、私は目に焼き付けるように見つめる。
突然、女性の腕が私の足をつかんだ。油断していた私はしりもちをつく。柚希は女性の足を食べるのに夢中でこっちを見ない。振りほどこうと必死にたたいても、その手はびくともしない。女性は血走った眼でこっちを見ている。巻き添えで私を柚希に食べさせるつもりか。斧を拾いあげその腕に降り降ろそうとすると、急に腕は離れた。そしておそらく女性の出てきた路地を指さしている。
「私を、たべさせて」
彼女は確かにそう言った。彼女の方を振り返ったときには、もうその目は力なく半開きになっていて、彼女が絶命したことを物語っていた。
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