あとがき

 ここまでお読みくださいましてありがとうございます。

 気象ネタのエッセイで五万九千字とか書いてしまいましたよ。

 これ二本分でカクヨムコンに出せる分量ですよ。ジャンルのことはおいといて。

 しかも、気象の専門家でも何でもないのに。


 はい。

 私は戦艦扶桑ふそうの話を書きましたけど軍事の専門知識は乏しいですし、台風や線状降水帯の話を書いていますが気象の専門知識もないですし。

 女子高校生の百合っぽい話も書いてますけど、女子高校生でもありませんし。


 このエッセイは、今年の八月末、台風一〇号が接近しているときに、テレビの報道などではあまり言われないところも含めて書いておこう、それで何かの役に立てば、ということで書き始めました。

 台風が接近してからの報道では、どうしても、現状がどうなっているか、直近の予報はどうか、というところに関心が集中します。

 それはしようがないと思います。

 しかし、台風による災害を避けるには、台風やそれに関する予報の基礎的なところを押さえておいたほうがいい。

 たとえば、そのときに書いたとおり、予報円というのはそのなかに台風の中心が入る可能性が七〇パーセントという円です。それ以外の場所に行ってしまう可能性も三〇パーセントはある。当然、その三〇パーセントも警戒しなければならないのですが、「強い台風」や「非常に強い台風」が目の前に迫ると、テレビなどの速報性の高いメディアの報道でいちいち「予報円をはずれる可能性も三〇パーセントありますからね!」と注意を呼びかけている余裕もなくなってしまいます。

 じゃあ、速報性は劣るけれど、何度でも読み返せる文章としてそういうことを書いておこう。

 そう思って書き始めたのがこの文章です。


 人間には「自分だけはだいじょうぶ」と思いこむ「正常性バイアス」がある、ということも書きました。

 ここでやっかいなのは、「正常性バイアス」が絶対的な悪ではない、ということです。

 「正常性バイアス」は絶対的な悪だ、「正常性バイアス」を捨てよ、というようなことを言う人もいると思いますが(私はそう言われたことがある)、私はそうじゃないと思う。

 私たちが日々を心穏やかに過ごせるのも、自分に自信を持って過ごせるのも、「正常性バイアス」があるから、自分だけは絶対だいじょうぶだと思えるから、ということも否定はできない。いちいち「自分はだいじょうぶじゃないかも知れない」なんて考えていたら、神経がもたない。困難なことにチャレンジできるのも「自分は絶対にだいじょうぶだから!」という信念があってこそ、ということもあると思います。重要な場面で「絶対だいじょうぶだよ」が決めぜりふとして出て来る魔法少女アニメもありました。

 「正常性バイアス」が悪いほうに作用することはもちろんあるけれど、プラスの意義がないかというと、そんなことはない、と私は思っています。

 だから、「正常性バイアス」はとてもつき合うのが難しいものなのです。


 私は、「災害が近そうなときには、自分が「正常性バイアス」をもっていることだけは自覚しましょう」という立場です。

 そうすると、どこまでは「絶対にだいじょうぶ」と信じて行動してよくて、どこで「絶対にだいじょうぶ」が破れたときへの対処をするか、自分を客観的に見て対処できるようになる。

 たとえば、災害用持ち出し袋だけは自分の横に置いておいて、悠然とテレビを見ている、とかいうこともできるようになる。

 災害というのは自分を客観的に見たから避けられるというものではありません。

 しかし、「自分は、自分は絶対にだいじょうぶ、と、根拠もなく信じている」とわかっているほうが、最初から「どうしようどうしよう」と迷ったり、最後まで「わしは絶対にだいじょうぶなんじゃー!」と信じて対応しなかったり、というよりは、まだ適切な対処が取れるだろうと思います。


 この点に限らず、これを書いていて感じたのは、「サイエンスコミュニケーション」や「リスクコミュニケーション」の難しさです。


 「サイエンスコミュニケーション」、つまり、科学的なものごとを伝える、理解してもらうためのコミュニケーションの難しさについては、議論するとまた長くなるので、ここでは触れないことにします(というか、書きかけて、どう書いても長くなるので、「今回はやめよう」と決めました!)。


 それと並んで、台風や線状降水帯をめぐるコミュニケーションでとくに難しいのが、リスクコミュニケーションの問題です。


 人間はリスクを直視したくない。「リスクを直視しなさい」と説教したって限界があります。人間は、自分が安心して暮らせるようにするために、できるだけリスクからは目をらしていたい。それが普通なのです。


 だから、リスクコミュニケーションにはもともと限界があるのですが、それでも、できるだけリスクを的確に伝えるための方法はあるだろうとは思うのです。

 それで、こんな文章を長々と書いたりしたわけです。

 一部、趣味ですけど。


 ところで、私もこの文章を書くときに、危険なものを安全だと誤解させるような表現はできるだけ避けたつもりです。逆に、危険さを過度に強調するような表現も避けたつもりです。

 でも、避け切れていないところはいろいろあると思います。申しわけありません。


 あ。

 「天かすを自由に入れられる関西の立ち食いうどんは偉い!」というのは「過度に強調した表現」ではありませんからね!

 ほんとに偉いと思います。


 そして、なぜか「あとがき」では終わらないこの文章!

 続きには、いったい何があるのでしょう……?

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