第15話 北畠親房が遭遇した台風

 あと、台風に関連する日本の歴史(近代より前)で有名な歴史上の事件としては、蒙古襲来のときの「神風」がある。

 弘安こうあん四年(一二八一年)の弘安の役は、時期としては旧暦七月末、現在の八月中ごろにあたり、台風であるのはほぼ確実なのだが、文永一一年(一二七四年)の文永の役については、現在の一一月であり、このときも「神風」が吹いたとしてもそれが台風だとすると不自然な感じがある。

 が、今回はその話ではなく。


 延元えんげん三年(北朝では暦応りゃくおう元年、一三三八年)八月、南朝の北畠きたばたけ親房ちかふさは、南朝の劣勢をはね返そうと北関東戦線を強化することを企画し、拠点を置いていた伊勢から軍勢を率いて東へと船出した。

 ところが、海上で嵐に遭い、船団は散り散りになってしまった。

 陸地にたどり着いた者たちは北朝側に討ち取られ、同行していた義良のりよし親王(後の後村上ごむらかみ天皇)は吉野に戻り、宗良むねよし親王は井伊谷へ逃れて井伊氏のもとへと逃れることになる(「義良」・「宗良」は「のりなが」・「むねなが」という読みかたもあるが、今回は「良」の読みは「よし」で統一する)。

 しかし、兵力を大きく損じた親房はそれでも現在の茨城県にたどり着き、一時期は関東の北朝方を震え上がらせるほどの奮戦を見せた。


 ここでは、親房の船団を壊滅させたのが台風だったのかどうか、ということについて考える。

 時期的には、現在の九月ごろになるので、台風であるとしても問題がない。

 ただ、このときの悪天候については、他の同時代資料に被害の記録がないらしい。船団が悪天候で壊滅したことは、ばらばらになって漂着した南朝方を北朝方が討ち取ったという文書が残っているので事実らしいのだが。


 南北朝動乱の遠因を、当時始まっていた地球寒冷化だとする卓見を示された永井ながいすすむさんは、親房が、台風の目に入って天候が静穏になったのを台風が過ぎ去ったと勘違いして船を出して船団を壊滅させたのではないかと推測しておられるが、私はこれはあり得ないと思う。

 台風の目というのは、あの「ポジティブ・フィードバック」が起こっている台風の中心部のことだ。ここでは「気化の潜熱せんねつ」が解放されて温度が高くなり、水の粒や氷の粒はまわりに飛んで行ってしまうので、空は晴れている。

 ただ、今回の台風一〇号のように、日本列島周辺の海水表面温度が高くて台風がまだ発達しているようなばあいを除くと、日本まで来た台風は形が崩れて「台風の目」がはっきりしなくなっていることが多い。とくに地球寒冷化が南北朝の動乱の遠因だというのなら、親房が船出した伊勢湾周辺の海水温は台風を発達させるほど温かかったとは考えらない。だから、そこに台風が来たとしても、発達途上の台風のようにはっきりした「目」を持っていたとは考えにくい。

 また、逆に、伊勢湾に目がはっきりするほど強力な台風が来ていたならば、東海方面はもちろん、京都や奈良で被害が出ないことはあまり考えられず、その記録がないのも不自然である。

 それに、台風の目のすぐ外は台風の「最大風速」の風が吹いている場所に当たる。海のばあい、その最大風速が起こされた波が台風の目の中で消えることはまず考えられない。だいたい、台風の目が通過する時間は台風が停滞したとしても数時間程度だし、その直前まで暴風雨が荒れ狂っているので、当時の船が、その数時間程度で出港準備を整えて出港できたとも思えない。


 北畠親房の伝記(ミネルヴァ書房)を書かれた岡野おかの友彦ともひこさんは、この台風は上陸せず、海上に暴風を吹かせただけで日本列島の南の太平洋を通過したのではないか、と推測しておられる。私はこちらのほうに説得力を感じる。

 もし地球寒冷化が起こっていたとするならば、太平洋高気圧は現在よりも後退していたはずで、台風が太平洋高気圧の縁を回る風から偏西へんせいふうへ乗り換える地点も現在より南だったはずだ。そうだとすると、現在の九月ごろの台風が日本列島に上陸せずに南海上を通過したと想定しても、まったく不自然ではない。

 さらに言うと、台風本体はかなり日本から離れていて、「土用どようなみ」的に台風から押し寄せた波だけで船団が壊滅的被害を受けたのかも知れない。


 ところで、当時の日本の航海技術は基本的に地文ちもん航法だったと言われる。

 地文航法というのは、遠くの山や岬の先端などの地上の「ランドマーク」を海から見て船の位置を決め、航路を割り出す航法だ。つまり、当時の日本の船は、地上のランドマークが見えるところから離れたまま航行することができなかったのだ。

 だから、航行するには、陸上に味方がいて、その「ランドマーク」を見分けて水先案内をしてくれる必要があった。

 日本の海賊は、水先案内をすると言って船に乗り込み、その見返りに金品を(ときには人間を)要求し、交渉が妥結すればよし、妥結しなければ武力で襲撃する、というやり方で活動していた。

 東海道は、三河みかわのくにが足利氏の本拠地なので、南朝方にとっては東海の海沿いはなかなか危険な場所だった。だから、味方の水先案内を配置しておける場所は限られており、その場所に到達できないと討ち取られてしまう。

 台風の被害自体がそんなに大きかったのではなく、大波だけのせいなのか、風雨があったのかはわからないが、ピンポイントで待機しているはずの水先案内と会合できなかった影響が大きいのではないか。だから討ち取られたという流れだと思う。


 ただ、さらに言うと、ほんとうに当時の日本の船は地文航法しかできなかったかというと、そこにもじつは疑問の余地がある。

 南北朝時代というと、「初期倭寇わこう」・「前期倭寇」が始まっている時代だ。

 倭寇は中国沿岸まで行っているわけだから、海しか見えないところを航行したはずで、地文航法だけに頼っていたとはちょっと考えにくい。

 ということは、北畠親房の船団も、海岸線から南に遠く離れた航路を航行して現在の房総半島まで到達する技術を持っていたのかも知れない。

 もしそうだとすると、なおのこと、日本列島から南に離れた海上を通過した台風の影響を受けやすいということになる。


 このとき、親房が台風に遭遇しなかったらどうなっていたか、ということを考えると、なかなか興味深い。

 親房は、関東に、歳上の宗良親王と、まだ若い(満年齢十歳くらい)の義良親王を配置して、その権威で地方武士を味方にして戦うという計画だった。ところが、両親王はこの嵐で遭難したために北関東に到達できなかった。親房が担ぐことができたのは、後醍醐天皇と敵対した護良もりよし親王(少なくとも護良親王の側は敵対したと認識していた)の子の興良おきよし親王だった。興良親王と親房には血縁関係があったが、あまり関係が良好でなかったという説もあり、関東の武士の南朝への忠誠をつなぎ止めることは興良親王と親房のコンビではじゅうぶんにできなかったようだ。親房は一度は北朝方に大きな脅威を与えたものの、北朝側の本格的反撃に遭って関東から撤退することになる。

 一方で、後醍醐天皇は翌年に亡くなるのだけど、このとき、義良親王が遭難して吉野に帰還していなければ、南朝の皇位を嗣ぐ後醍醐天皇の皇子は吉野に一人もいないことになっていた。じっさいにはまだ若い義良親王が台風で遭難したために帰還しており、即位して後村上天皇となって南朝の皇位を嗣いだ。

 でも、これ以上の話は、またの機会にとっておくことにしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る