第9話 「気化の潜熱」の恐怖!

 では、熱帯低気圧の成長過程で具体的にどう「ポジティブ・フィードバック」が働くか?


 熱帯低気圧の中心には上昇気流が存在する。というか、上昇気流が海面の空気を上空に吸い上げるので、そこが低気圧になる。

 そうやって吸い上げられた空気は、上空に上がって冷やされるので、なかに含まれていた水蒸気が水の粒になる。

 とくに、熱帯低気圧ができるのは暑いところの海の上なので、そこの水分にはめいっぱい水蒸気が含まれている。それが、熱帯といっても上空は冷たいので、冷たいところに来て冷やされて、大量の水蒸気が水の粒になる。

 ここまでは、まだいいんだけど……。


 ここで、「気化の潜熱せんねつ」というものが発動する。


 「気化の潜熱」というと何かというと、水が水蒸気になるときに、まわりの熱を奪う、というものだ。

 こう書くと、かなり小難しいけど。

 夏には、通気性がよくて、乾きやすい服を着たほうが涼しくてよい、と言われる。

 これはなぜかというと、汗が水蒸気になって飛んでいくときに、まわりの熱を奪うからだ。この「まわりの熱を奪う」というところで奪われた熱が気化の潜熱になる。

 また、もう二十年ほど前、イラク戦争というのが終結した後、日本の報道陣がイラクに入ってイラクの人たちの生活というのを紹介していたことがある。そのなかで、気候が暑いイラクの人たちは大きいきの入れ物に飲料水を入れて、その水を飲んでいる、ということが紹介されていた。

 イラクは暑いが、その素焼きの入れ物の水は冷たいので、飲むとたいへん心地がよい。

 どうなっているかというと、素焼きは一定程度の水が表面にしみ出すので、それがまわりの熱い空気に触れて蒸発する。蒸発するときに熱を奪うので、容器内部の水の温度がそれだけ下がる。

 この、素焼きの表面から蒸発するときに奪う熱が「気化の潜熱」だ。

 だから、外はめちゃくちゃに暑いのに、素焼きの容器の中の水は冷たい。飲むと気もちいい。インフラも十分でないなかで、イラクの人びとはこうやって生活の快適さを確保している、みたいな話だった。

 ちなみに、乾燥しているイラクと違って、日本の空気は湿っているので、同じことをやっても素焼きの表面にしみ出した水は順調に蒸発してくれず、容器の表面がじめじめになるだけで、あまり冷たくならないのではなかろうか。


 気化の潜熱、すごい。

 私たちの生活をクールに、涼しくしてくれる気化の潜熱バンザイ、というところなのだが。

 やっかいなのは、逆が起こる、ということだ。


 「逆」とは?

 水蒸気が水に戻るときに、水蒸気になる時に奪った気化の潜熱をまわりに放出するのだ。

 したがって、水蒸気が水に戻ると、まわりの空気は暖かくなる。


 熱帯低気圧の中心で、吸い上げられた湿った空気が水蒸気を溶かすことができなくなり、水蒸気が水に戻る。

 そのとき、気化の潜熱を放出するので、低気圧の中心の温度が上がってしまう。


 低気圧の中心の温度が上がると、それがまた水に戻った水分を蒸発させる、という流れになると、蒸発するときに気化の潜熱を奪うので、ポジティブ・フィードバックは起きないのだが。

 水分に戻った水の粒は雲になって、低気圧の中心からまわりに散って行ってしまうのだ。その散って行った水の粒が熱帯低気圧の雲、台風の雲ということになるのだけど。

 そこで解放された熱(気化の潜熱)だけが、低気圧の中心に残る。

 だから、低気圧の中心は、乾いたままで、気化の潜熱をもらってどんどん熱くなる。

 熱くなるとそれだけ上昇気流が強くなる。つまり、海面の気圧は下がる。

 そうするとますますたくさんの湿った空気を吸い寄せる。その湿った空気に含まれる水蒸気が上空で水の粒になるときに気化の潜熱を解放する。水分は雲になって低気圧の中心のまわりに散って行くので、低気圧の中心にはそこで解放された気化の潜熱が残り……。

 その結果、熱帯低気圧の中心でポジティブ・フィードバックが発動して、中心の上昇気流は一方的に強まり、中心の気圧は一方的に下がっていく。


 私は、この説明を聴いたとき「そんな卑怯なの、なし!」と思った。

 だって、空の高いところに上がったら、まわりが冷たいから液体に戻るわけでしょ?

 まわりが冷たいから液体に戻ったものが、なんでそこの空気を暖めるの?

 答えは、解放された気化の潜熱だけを残して、水分が雲になってまわりに散って行くからなのだけど。

 そうやって気化の潜熱が解放されても、上空の空気のほうが海面の空気より温度が低いことには変わりがないので、「湿った空気が気化の潜熱を解放し続け、中心の温度が上がり続け、上昇気流が強まり続ける」というプロセスは進行する。


 そうして、熱帯低気圧の中心の気圧は下がり続け、「構造としての熱帯低気圧」は熱帯低気圧から台風へと発達する。


 もっとも、じっさいには、いろんな制約があって、熱帯低気圧が際限なく「ポジティブ・フィードバック」で暴走して成長するとは限らない。海面温度が低くなると吸い取れる水蒸気の量が限られてくるので、そこで気圧が下がるのは止まるし、まわりの高気圧や低気圧のせいで湿った空気を吸い取れなくなってしまうこともある。

 だから、発生した熱帯低気圧がどれもこれも際限なく強くなる、ということはないのだけど。

 でも、そういう制約が弱ければ、熱帯低気圧は「ポジティブ・フィードバック」によって発達し、台風へ、さらに「強い」とか「非常に強い」とか「猛烈な」とかの表現つきの台風へと成長してしまう。

 先日の令和六年台風一〇号は、日本付近の海面温度が三〇度を超えていたために、日本付近でもこの「ポジティブ・フィードバック」が働き続けて、どんどん強くなっていった。

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