第5話
家に帰り、僕は仕方なく小説を一文だけ書こうとした。
しかしこの五年間ほとんど小説を読まなかった僕にとって、それはとんでもなくでかい壁にぶち当たるようなものだった。
考えれば考えるほど、一文目なんて好きな人に告白する時のセリフと同じようなものではないか、と思ってしまう。そもそも小説を書いたことのない僕にとって、何を書いても間違っているような気がしてならないのだ。
悩めば悩むほど腹と頭が痛くなってくる。吐きそうだ。よし一旦休憩しよう。
僕はスマホを開いた。そうだ、出々しの文をネットで検索してみよう。そしてそれをパクろう。そう決意した。
――無理だ。どれを真似してもその後をどうすればいいかがわからない。それに見てたら涙が出てくるし本当に吐きそうになってくる。やっぱりおじさんには断って諦めようかな。
諦める……諦める……。
そうだ。諦めるという言葉から始めたら意外と面白いのでは?
僕はノートに『僕は諦めた』と書いてみた。なんかそれっぽい。もう一文だけ、もう一文だけと書いていくと一ページが埋まっていた。
小説が嫌いなはずなのに、書き続けているといつの間にか楽しくなってきた。
しかしその裏では小説嫌いが書く小説は本当に面白いのか。小説を書き進めるに連れその疑問が大きく膨れ上がっていった。
◇◇◇
書き続けて数日、とうとうおじさんに小説を見せる日が来てしまった。結局すいすい書けたのは二ページ分だけで、僕にはもうあと一ページと半分書くのが限界だった。
僕はちゃんと学校に来て、あの教室のドアの前に立った。右手にはピンクのノート、左手には例の鉛筆が握られていた。僕は心臓が飛び出そうになりながらも勇気を絞ってドアを開けた。
「いらっしゃい。待ってたよ」
おじさんはこの間と同じように座ってゆっくり麦茶を飲んでいた。
ほらここ、と手招きされ僕は椅子に座った。それと同時にノートと鉛筆を両手から剥がされた。
「これが例の鉛筆か。本当に折れてるんだな」
春野同様、鉛筆をまじまじと見るおじさんはまるで子どものようだ。
「それそんなに面白いですか?」
「とても面白い。これを毎日君が学校に持ってきているというのもかなり面白い」
「……そろそろこっちも見てくださいよ。腹痛と頭痛に耐えながら書いたんですから」
僕はノートを指さした。
「ほう、それは鉛筆の呪いかな?」
「どちらかといえば小説のです」
「へえ」とおじさんはノートを開いた。僕が書いた小説を偉い小説家が読んでくれている、というふうに思わされたのは自然なことで、おじさんは鉛筆を見る以上に、真剣に、じっくりと読んでいた。
おじさんはノートを置き、一呼吸置いて話し始めた。
「いいね。本当に小説嫌いなの?」
「はい、それはもう。一目見れば吐き気が襲ってきます」
僕は返事をし、姿勢を正した。
「感想を言うとね、そりゃあもうダメダメだよ」
はははと笑いながら言った。素直に言ってくれるのはありがたいが、面白くかけた気がするのになあ、と正直思ってしまう。
「でもこの初々しい感じが良いね。俺はこれかなり好きだよ。小説家を辞めたいから鉛筆折ったのに、次の日になったら元に戻ってるなんて嫌すぎるでしょ」
いい発想だと褒められているのはよく分かった。その言葉が聞けただけでも気分が軽くなる。
「よし、この調子でどんどん世界観を広げていこう」
「……え?」
「だって宿題の小説って二万字でしょ。これはまだプロットだよ」
プロット……。
「プロット知らない?」
「……はい」
もしかしたら講座で説明してたのかもしれない。聞いてなかったのがバレた気がして一瞬背筋が凍った。しかしおじさんはプロットについて笑顔で説明してくれた。
説明を聞いていると、僕は何も知らずに書いていたんだなあと恥ずかしくなった。僕の拳がぎゅっと固まっていたことに先に気がついたのは自分ではなくおじさんだった。
「誰でも否定されたら悔しいよね。でも俺は君が誰よりもいい作品を書けるようになると思っているよ」
「……おじさ、はっ!」
無意識だった。僕はおじさんと言いかけていたその口を手で抑えた。
「す、すみません!」
「いいよ。おじさんなのは事実だし」とにこやかに答えてくれた。僕はその顔を見てひとまず安堵した。
その後、おじさんはノートと鉛筆を僕に一緒に手渡した。
「良い鉛筆があるんだから、それで書いてみなよ。きっと良いものができるよ」
そう言いながらおじさんは立ち上がったので僕も立ち上がった。
「今日はありがとうございました」
お辞儀をして廊下に出ると、そこには春野がいた。
「お疲れ様。先生もこんにちは」
「春ちゃんやっほー」
後ろからひょこっと出てきた。二人で何かを話し始めたので僕は帰ろうとした。
「ちょっと待って。明日空いてる?」
「僕ですか? まあ……空いてますけど」
「じゃあ、明日朝一〇時に学校前のペンシルカフェに来てね」
「はあ……」
勝手に僕の予定が組まれたことに気づくのにそんなに長くはかからなかった。
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