第28話 缶ジュースと羞恥
高校生活一年目の夏休みも残り二週間を切っていたが今年の夏休みはこれまでをそしてこれからを含めてもいいくらい一番と断言できるほどに忘れられない夏であり僕は未来永劫この一ヶ月を記憶し続けるだろう。
火災の報道から数日は大人しく家に篭り大半の時間を手付かずだった夏の課題にあてて取り組んでいた。ずっと自室に一人ではあったが機械の発展はかなり進んでいたらしく初めてビデオ通話なるものを教えてもらい哲希や薫ちゃんと画面越しに顔を合わせ話していたため寂しさはなく孤独に苛まれることもなかった。悲しいことがあったとすれば亀裂が入った携帯画面のせいで薫ちゃんの表情がはっきり見えなかったことぐらいだ。
廃墟で決着をつけたあの日からすぐに立ち直れる人間などいるはずもなく皆どこか上の空であり表情には陰りが見られていたと思う。だが数日が経過し各々が心の整理をつけビデオ通話ができるくらいには回復するとその後は日が経つごとに自然と笑みが溢れる回数も増えた。特に薫ちゃんの笑顔が増えた気がしたし、それは非常に喜ばしい兆しでありこれからは思うがままに人生を歩んで欲しい限りだ。
火災の話題で持ちきりだった日々も落ち着きを取り戻し、残り一週間余りあるせっかくの長期休暇を全て家で過ごすのはもったいないと数日ぶりに外へと出た。ずっと部屋に閉じこもって顔を合わせるのはご飯の時くらいだとまた母に心配をかけてしまう恐れがあったし、火災が僕と何か関係があると勘繰られでもしたらたまらない。
夏も後半だというのにお天道様は今日も燦々と頭上に君臨しておられ、家を出て数歩進んだだけで汗が吹き出し早くも足を百八十度回転させクーラーが効いた部屋へと引き返したくなった。気まぐれの散歩だったならもう少し日が傾いて涼しくなってから再度出直しということも可能であり是非ともそうしたい。しかしすでに目的地は決まっており待ち合わせまでしているため炎天下だろうと進むしかなく、ひ弱なこの身に鞭打って時間に遅れないよう目指すべき場所へと向かうのだった。
「すみません少し遅れちゃいました。久しぶりに体を動かしたからかすぐに疲れちゃって、ダメですね私」
待ち合わせ場所として設定されていた旧展望台に先に到着し木陰で寝そべりながら涼んでいると声がかかった。道すがら自販機で購入した飲み物を保冷剤として眉間の上に乗せていたため、もう冷たさが感じられないペットボトルを手でどかすとワンピース姿の薫ちゃんがこちらを覗き込むように立っていた。腹筋に力を入れ上体を起こすと僕も道中で何度ぶっ倒れそうになりここに来るまでに溶けてしまいそうだったと冗談まじりに返す。紫式部も歌っていたではないか夏は夜と、昼に外を出歩くなど愚の骨頂とも言える行為なのだ。
「それを言うなら紫式部じゃなくて清少納言ですよ滝野瀬さん。最近は勉強に身を入れてたんじゃなかったですっけ」
これは一本取られたと浅知恵を披露してしまったことに羞恥心を抱きながらも、口では薫ちゃんを試すため敢えて間違ったと見栄を張る。しかし全てお見通しと薫ちゃんには「はいはい、そうですか。そんなことよりこれをどうぞ」と軽く受け流されてしまうだけでなく、缶ジュースを差し入れとして手渡され気遣いができるところまで見せつけられる始末だった。先輩としては身に余る後輩で引け目を感じなくもないが、友人としては軽口を叩けあえるほどに素の姿を晒してくれているようで喜ばしい限りだ。
「買ってから結構時間が経ってるので早く飲んじゃってくださいね。遅れて来ておいて図々しいですが私もすぐには動けそうにないので少し休憩してから作業に取りかかりましょうか」
手に握られたまだ冷たさが完全に失われていない缶ジュースは賄賂だったかとしてやられたりだが、受け取ったからにはしばらく休憩するしかなく缶の蓋を開ける。薫ちゃんは開けましたねと言わんばかりの悪戯な微笑みを浮かべながら僕の隣に腰を下ろした。てっきり自分の飲み物も一緒に買っているものだと思っていたが薫ちゃんが飲み物を取り出す気配はなく、自分だけ冷たい飲み物をいただくのも後ろめたいのでまだ半分以上残る缶を差し出した。お気遣いありがとうございますと懇切丁寧に感謝を口にし受け取りこそしてくれたがその後手にした缶ジュースは微動だにせず、どうしたのだろうと様子を伺うと薫ちゃんの顔は暑さにやられてか真っ赤になっていた。
「こ……これ、やっぱり返します。私は平気ですから気にしないでください」
所々つっかえながらの言葉と共に缶ジュースを再び差し出されるが見るからに薫ちゃんは今すぐ冷却が必要であり受け取れるはずもなかった。だが力強くグッと缶ジュースがこちらに押し出され意思とは反し僕は缶ジュースを握ってしまっていた。手が自由になると薫ちゃんは伸ばした足の上に乗せていたポシェットを掴み顔に押し当てるとそのまま背後に倒れ込むように寝転がってしまう。
状況についていけていない頭でなんとか現状を理解しようと視線を薫ちゃんから外し飲みかけの缶ジュースと向き合う。そこでようやく遅まきながら頭の中に立ち込めていた霧が晴れるかのように異変の原因に心当たりがついた。だとするとこれは完全に僕の落ち度であり、小さい頃から哲希や麻衣子とは回し飲みを当たり前のようにしていたことで配慮に欠けてしまったのだ。今回はたまたま僕が先に口をつけるかっことなってしまったが、もしこれが逆で薫ちゃんから手渡されたとしたらどうだったか分からない。いらぬ恥を掻かせてしまったと謝罪するべく倒れ込んだ薫ちゃんに向き直ると同時に心地よい風が吹き抜けた。急な突風は髪をはらい頬を撫でるだけでなく重石の役目を果たしていたポシェットが除かれた無防備なワンピースのスカート部分をもさらった。
瞬きよりも早く薫ちゃんは起き上がると顔を覆っていた鞄ごと孔雀が羽を広げるかのように舞うワンピースを押さえつけた。僕が座っていた場所は薫ちゃんの腰あたりであり見えてこそいないが流石に気まずさを禁じ得ない。こういうときどういう対応をすることが正解なのかなど回答を持ち合わせているはずもなく、できることがあるとすればこれ以上薫ちゃんの羞恥心を煽らないよう何も口にせず両手で目を隠すことくらいだ。
僕も薫ちゃんもしばらく固まったままで時だけが流れ、少しして呪縛から解き放たれたかのように熟れに熟れた果実のような赤い顔だけがゆっくりと僕の方へと向けられた。どうして指先までしっかり閉じておかなかったんだと後悔しようともすでに後の祭りであり、指の隙間から涙目の薫ちゃんと言い逃れのしようがないほどにはっきりと目が合う。
「滝野瀬さんの馬鹿。今日は私が一人でやりますからあなたはずっとそこで休んでいるといいです」
もうこれ以上この場所には居られないと遠ざかっていく薫ちゃんは捨て台詞だけは忘れずに残して走り去っていく。非常に申し訳なく思うのは確かだが見たことのない新たな一面に触れて歓喜する自分がいるのもまた確かであり可愛いと思ってしまったのはここだけの話で内緒のことである。
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