第5話 階段と逃走
状況は最も悪いと書いて最悪なのだが完全に詰みの状況というわけではなく、あくまでも母が開けたのは玄関の扉であり自室の扉ではないのだ。今後の対処を間違わなければ予期していなかった面会を避けることは可能である。であるならば頭を使え思考を巡らせと授業中ですら見せたことのないほどに頭脳を駆使した。
夏休みに入ってからというもの学習とは無縁になりつつあった脳を働かせたので名案とまではいかないが二つの選択肢にまで絞り込めたのだから上出来だろう。
一つ目は隠れられそうな押し入れや机の下に身を潜めてもらいやり過ごす方法でもう片方は母の目を盗んで家から脱出する方法だ。前者はもし部屋に来られても僕の話術次第では誤魔化すことが可能でリスクは少ない点が優秀だ。緊迫した空気感の四畳半の部屋で二人して物音を立てずに小声で話したりすることに僕が耐えられるかは定かではないが。
後者は自ら動き出すため見つかるリスクは高まるが玄関まで辿り付いてしまえば解放され自由になれる。成功時の恩恵と失敗時の損害を天秤に掛ければ博打を打つには十二分に見合っているといっていい。
危ない橋など渡るこなく現状を打破することが最優先であるからにして前者の案を採用したくなるが、致命的な欠陥が一つあることを見落としていた。玄関には東山さんの靴が置きっぱなしにされているということだ。つまり母は誰かが家に来ていることを察していることだろうから部屋の前で誤魔化しきれず部屋の中をくまなく調べられたりしたらたまったものではない。であるからして消去法により採用するのはハイリスクハイリターンな玄関脱出作戦となった。ちなみに三つ目の案として逃げも隠
れもせず堂々と東山さんを紹介するというのもあったが即却下した。
ここまでの作戦立案は自己判断に基づき行われ自己決定したわけで、東山さんの意思はなにも組み込まれていない。彼女が一言挨拶したいと部屋に居座れば覚悟を決め案その三ということにもなりかねなかったが、手短に脳内会議の結果を説明すると東山さんは運命共同体として作戦決行することを選択してくれた。
「滝野瀬くんのお母さんには悪いけど今日のところは私も共犯者になるよ。それに脱獄するみたいで面白そうだし」
緊張感など微塵も感じられないがどうやら高校生になって人当たりが良くなり、家まで気軽に押し掛けられるようになった身でも避けたい事案らしい。現状を捉える尺度に差異を感じつつも、作戦立案者として浮ついた様子の東山さんの分までより一層のこと失敗なんて以ての外と気を引き締める。
心決まれば速やかに実行あるのみで、家の中にいればいるほど作戦失敗確率は増す一方だ。身支度を終え肩から鞄を提げると慎重にドアノブを捻った。
家の間取りとしては自室があるのが二階で外窓からの脱出は不可となっており、階段を降りてすぐに玄関となっている。距離にしてしまえばなんてことはないのだが、一階と二階を繋ぐ階段が曲者で今回の作戦の難易度を飛躍させていた。よりにもよって木造の階段であるからに音爆弾がいつ炸裂するか常に怯えなければならない。昔の話だが深夜にこっそりお菓子を食べようとして何度「ギギギギギ」と不愉快な音爆弾を踏み抜き母に現行犯逮捕されたことか。
過去の失敗の積み重ねは学習の機会も与えてくれていたからこそ知っていることもある。階段の比較的端の方を踏んで上り下りすれば音爆弾を避けられる確率が大幅に増すということを学んでいるのだ。まだ自制心が育っていない欲求に忠実だった頃に取得したスキルであり、最近というかここ数年はほとんど忘れていたことでもあったがここに来て幼き日の悪知恵が生きるとは本当に人生はいつ何時いかなることが役に立つかわからない。必勝法さえ知っていれば怖いものはないと自室を後にし短い廊下を歩き切った僕たちは難所である階段へと足を踏み出した。
ここまでの身のこなしを思えばさながら忍者のようにと形容したいが、僕たちの姿は空き巣に入った泥棒と揶揄されることだろう。口髭をつけた東山さんが唐草模様の風呂敷を背負っている姿がふと脳裏に思い描かれ階段も折り返しに差し掛かったところで危うく階段を踏み外しそうになった。うまくことが運んでいたから油断をして最後に苦杯を嘗めることはよくある話で今こそ先人の愚行から学びを得なければ。
解けそうになっていた緊張の糸を固く結び直して残すところ半分となった階段を再び下りだす。玄関を出るまでは何があっても揺るがないよう固く結んだはずの糸は一段階段を下ったところでいとも簡単に切られた。木造の板が軋む耳障りな音が静かな空間に響き渡る。僕の足元からではなく背後から聞こえた音に吸い寄せられるように振り返ると板のど真ん中を踏み抜いた東山さんの右足が目に飛び込んできた。
階段を下り始めてからは自分の足元だけに神経を注いでいたため、東山さんのことを気に掛ける余裕を持ち合わせていなかったがまさか堂々と階段の真ん中を踏み抜いているとは思いもよらなかった。堂々とした進行の彼女には手すりをしがみつかんばかりに握り階段の端を慎重に下る僕の姿はどのように映っていたのやら。
思わず額に手を当てて天を仰ぎたいが時間が惜しいと何も説明せずに見様見真似で同じようにして階段を下りてくれると思い込んでいた自身のいたらなさが招いた結果である。
運良く半分までたどり着いた当の本人はというと足を引くこともできずに固まっていた。まだ何も口にしていないがすでに目が泳いでいる。
急に決断を迫られる展開となったわけだけれども、ここまで来たからには部屋に引き返す選択など論外だと切り捨て迷うことなく玄関まで一気に駆け抜けるしかない。
焦りはあれど階段の上にいるためいきなり彼女の手を取り駆け下りることはあまりにも危険な行為だと冷静な判断のもと、一気に駆け下りようと小声で伝えると合図とともに木造階段のど真ん中を踏み抜き走り出す。
音など気にしなければ階段など恐るに足らずでこれまでの労力はなんだったんだと思えるほどあっという間に廊下に降り立つと、背後にいた東山さんを前へと押し出し玄関へと向かわせ後に続く。彼女が靴を履き終え玄関の扉を開けたのと背後からリビングの扉が開く音が聞こえたのはほぼ同時だった。あと少しというところで母の目に捕まってしまったわけだけれども、目撃されたのは靴を履き終えた息子だけだ。東山さんに関しては紙一重で外に逃すことに成功していた。僕たちの勝ちでありミッションコンプリートの瞬間だった。
残る作業は簡単なもので母が口を開く前に先制攻撃を行いこの場を去ること。まさか靴だけで東山さんだと判断はできないと思うが今の精神状態では問い詰められるとあっさり馬脚を露わにしかねない。遊びに行ってくると捲し立て、返事など待たずに伝えることだけ簡潔に伝えると行ってきますと締めくくり速やかに玄関から退場する。夏真っ盛りだというのに背中に薄寒さを感じたが、足を止めることも振り返ることもなくただ足を前に出すことだけに邁進した。
家から離れられるのであればという行き当たりばったりな逃走の果てに行き着いた場所は小さな公園だった。家を出てしまえばもう何も危惧する必要などなく、公園のベンチに緊張感から解放された身を委ねると二人して大きく息をついた。最初に笑みをこぼしたのは東山さんだった。何が笑いの壺を刺激するのかがわからなかったが隣で眺めているうちに同調するように笑みが溢れてしまっていた。
「こんなに走ったのは久しぶりだよ。楽しかったね滝野瀬くん」
涙するほどのことだったのか目元を手で拭う遠山さん。誰のせいで強行突破に乗り出さなくてはいけなくなったのだと気が気ではなかった身からすればぼやきたくもあるが、今回の件に関しては僕に落ち度があったことは明白で何も言えない。何より久しぶりに少なくとも高校生になってからは一度も見たことがなかった東山さんの曇りない高笑いを見られただけで全ていい思い出となり許してしまえそうだ。
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