第7-1話



 ──


 かつて、神が選ばれし者に与えた力である魔法。


 選ばれし者たちが魔法を普及させるために、弟子たち向けに使いやすい術としたもの──それが、魔術だからだ。



 弟子たちは、魔術を使って社会を発展させてきた。

 魔術という奇跡を見せられた人々は、次第にその神を信じるようになってきた。


 そうして、こんなことを言い始めたのだ。

 自分たちも魔術を使えるようになりたい、と。



 だが、この段階の魔術は、選ばれし者と弟子たちなど、神と少なからず関わりを持つものだけに許された特権だった。


 そんなとき、選ばれし者の一人がある儀式魔法を完成させた。


 今は、サンクティア王国の教会の総本山であり、《聖域》と呼ばれる場所。

 その秘境にしか湧かない特殊な水である《聖水》を利用して、その水に触れるだけで神との接続を開花できるようにしたのだ。



 その儀式は《聖浴》と呼ばれるようになり、魔術が使えるようになるという言葉とともに急速に広がっていった。動機は不純であったが、そんな経緯で神は信者を増やして勢力圏を拡大した。


 そうして今や、どの教会にも必ず聖水が用意され、聖浴ができるようになっていた。

 



 ──もちろん、それは《聖女の庭園リリィ・ガーデン》も例外ではない。




 ちゃぷん、と。

 戦乙女のような風格を持つ少女──カリナ=ルドベキアが足先で聖水に触れると、その冷たさに思わず足を出しそうになった。



 リリィ・ガーデンにある聖浴場だった。

《聖浴》は、神との接続を得るために一回だけ行えば何も問題はない。


 だが、敬虔な信者の間では一か月に一度ほど行うのが良いとされていた。



 カリナはそれに従い、初めて聖浴をしたときから、必ず一か月に一度はするようにしていた。

 もっとも、それ以外の理由もあるのだが。



 現在、カリナは白いタオル一枚を纏っただけの姿だった。

 だが、誰もいないことを確認すると、タオルを取って身一つとなる。



 同性でもうっとりと見惚れてしまいそうなほど、引き締まった理想的な身体。

 とはいえ、最近はしっかりと丸みに帯び始めていた。




 むにゅ、と胸を自分で下から持ち上げる。

 魔術師にとっては邪魔なので育たなくてよいのだが、カリナの想いに反して、見るたびに膨らんでいるような気がしていた。



 そして、左胸の下あたり──ちょうど心臓の近くに、小さなが刻印されていた。


 これが《聖浴》の効果。

 神との接続を得られた、神の信者である証。

 一度でも《聖浴》の儀式をしたことがあれば、信者にはこの紋様が刻まれるのだ。



 すぅ、と息を吸って、カリナは前へと歩いていく。

 徐々に水深が深くなり、やがて頭のてっぺんまで聖水に浸かった。


 肌にぴりぴりという感覚が走ると、ゆっくりと目を開ける。

 他の誰にも共感してもらえないのだが、カリナが聖浴で聖水に浸かるたびに、誰かに見られている感覚があった。


 決して不快なものではない。

 ただそこに存在するだけで、何かを手出してきそうな感じはない。


 ──あなたは、いったい誰ですか?


 今日もその存在はいたが、カリナの内心の問いかけに何かを返してくることはない。


 だけれど、直感で何となく察していた。

 あれこそが、神なのではないか、と。


 もちろん、自分如きが神を気取れるなど烏滸がましい限りだ。そんなわけがない。きっと勘違いなのだとは思うが。



 と、そこで。


 ふと、カリナは何故か同じ第七庭園のある生徒のことを思い出した。

 聖浴をしている光景を一度も見たことがないからかもしれない。



 されど、仕方なかった。

 彼女の生い立ちを考えれば、ある意味当然でもあったからだ。




 先程の話に戻るならば──聖浴により、神を信仰する者は格段に増えた。

 だが、その一方で、神を信じない者も当然のように存在した。



 たとえば、怪しいと思い、聖浴を拒否したもの。

 たとえば、神の影響力がない別の大陸からやってきた者。

 たとえば、別の神を既に信仰していた者。



 その中でも、別の神を信仰して契約した者たちは総称して《魔族》と呼ばれた。

 そして、第七庭園の生徒──シュエ=アマリリスは魔族の生き残りだ。





◇ ◇ ◇





「……やめ……やめて、ください……!」


 少女は走りながら、か細い声で悲鳴をあげていた。



 氷色の長髪は二つに括られ、前髪は人形のように整った顔を隠している。

 体格は初等部の生徒のように小柄で、服の袖からは手がちょこんと見えるのみ。

 リリィ・ガーデンの制服には特注でフードがつけられていた。

 いつもは顔が表に出ないぐらい、フードを深く被っていたが、今だけは脱げて可愛らしい顔が晒されていた。



 ──そして、大きな特徴が更に二つ。



 一つは、小さな怪獣とでも表現すべき動物が彼女の頭の上に乗っかっていたこと。体表は黒く、ぎょろぎょろと目が動いている。


 そしてもう一つは、彼女の頭からが生えていたこと。


 明らかに、普通の人間の違うそれ。

 そのせいで、少女──シュエ=アマリリスは、現在冒険者たちに襲われていた。



「魔族のお嬢ちゃん。おとなしく捕まって、奴隷商に行きましょうね〜」



 リリィ・ガーデンが建てられた魔術と歴史が調和している街・セレスト。

 その商業区の路地裏を、シュエは懸命に走り抜ける。



 背後からは、冒険者たちのねちっこい声が聞こえてくる。

 シュエが冒険者であると判断したのは、首から紐を通したメダルをかけているからだ。



 決して詳しいわけではないが、あのメダルは冒険者であることを証明するものだったはず。

 冒険者の声が耳に届くたびに、シュエの身体には悪寒が走る。



 シュエが商業区までやってきたのは、頭の上の怪獣、愛称《ゲーちゃん》のおやつを買うためだった。


 その帰り道。

 突風でフードが外れてしまい、不運なことに角が冒険者が見られてしまったのだ。



 ちらり、と後ろを振り向くと、冒険者たちは全部で三人いた。

 リーダ格の女性が一人、手下の男が二人という構成。



 酔っ払っているのか顔は真っ赤。

 だが、シュエを追う足取りは確かだ。

 それは冒険者としてそれなりの腕があるからか。



 今だって、シュエが捕まらずにいられるのは単に土地勘があるからだ。

 冒険者たちはおそらくこの街の出身ではないのだろう。



 セレストという街は、東西からの交易が盛んに行われており、人の出入りも激しい。冒険者たちもその交易路を使って、どこかのダンジョンに向かうところ──あるいは帰っているところなのではないかと、シュエは考えていた。



 しかし、いくら土地勘があろうと、三人の冒険者から逃げ続けるのは限界があった。



「っ」


 シュエの前に、不意に壁が現れる。



 袋小路。

 そう理解したときにはもう遅かった。



 背後からは三人の冒険者。男二人が手前に、奥にリーダー格の女性冒険者が一人立つという配置である。


「いやー、やっぱ私たち運がいいねぇー」


 にやにやと笑いながら、リーダー格の女性冒険者がシュエを見た。


「ダンジョンでからっきしかと思いきや、希少種の魔族ちゃんに出会えちゃうとは。これだけ見た目がいいなら、好事家には大人気よねぇ」


 私は魔族なんかごめん、だけど。

 そう言った直後、リーダー格の冒険者がすらりと剣を抜き放つ。


 併せるようにして、手前の二人も武器を構える。

 酔っ払い、気持ち悪い笑みを浮かべつつも、しっかりとシュエの逃げ道を潰している。



 立ち向かうしかない状況。

 だが、シュエの足は震えるばかりで一向に動いてくれない。



「さあ、ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね。なにせ、こっちは魔物相手がほとんど、でね!」

「────っ! げ、ゲーちゃん!」



 シュエは体内の魔力を熾しながら、その名を呼ぶ。

 もちろん応じたのは、シュエの頭にいる小さな怪獣だ。



 その怪獣はぎょろっと三人の冒険者を見ると──次の瞬間、、魔術を発動した。



 ぞっとするほど綺麗な氷の盾が、シュエを覆い隠すように広がる。



 まさに冒険者は剣を振り下ろそうとしていたが、氷の壁に弾き返される。

 氷の壁の向こうで、冒険者は口々に何か悪態をつく。

 汚い言葉、煽るような言葉、そしてシュエの存在自体を否定するような言葉。


「…………っ」



 ゴミだらけの路地裏。誰かの吐瀉物が地面に残っているのが見える。

 それでも、シュエは両手で耳を塞いでうずくまる。

 何も聞きたくなく、何も見たくなかったから。



 これが、シュエ=アマリリスという少女の日常だった。




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