イザベラ=ルミエール

第3-1話


「……こんなものか」


 リリィ・ガーデン内にある教職員向けの自室。

 テオは一頻り紙に書き終えた後、部屋を見回した。


 いつの間にか、夜が終わり、朝になっていたらしい。


 朝の日差しがカーテンの隙間から入り、思わず目を細める。

 本棚に押し込められた本をひっくり返し、図書室の本を可能な限り持ち込んでいたせいか、床には足の踏み場もない。


 まるで強盗に入られたかのような光景だった。



 だが、そのおかげで状況はおおよそ整理できていた。

 壁には何枚もの紙が貼られていた。

 紙に書かれているのは、テオが知る限りの情報。


 つまり、この一年間で起きるはずのイベントとの教え子たちの情報だ。


 全て覚えているわけではないが、おおよそは掴んでいるだろう。



「結局戻らなかったか」


 もしかしたら日付を超えた瞬間、死んでしまうかとも覚悟していた。

 だが、それはなかったということは、一先ずこの生活が続くということなのだろう。



 テオは結論として時間が戻ったのだと解釈していた。



 何がきっかけかはわからない。考えてもわかるとは思えない。

 だとすれば、やはりテオは教師として行動するしかなかった。

 教え子を救う、ために。


 その最初に選ぶのは、


「……やっぱり、あいつだろうな」


 テオが見た紙の一番上には、一人の女子生徒の名前が書いてあった。




 ──『イザベラ=ルミエール』と。





◇ ◇ ◇




「っ……ざけんじゃ、ないわよッ!」



 イザベラ=ルミエールは庭園が指定する運動服に身を包み、ただひたすらに走っていた。


 季節は春。

 気候は穏やかで過ごしやすい時期である。


 とはいえ、ずっと走っていれば身体のうちから火照り、汗が溢れてくる。


 後ろで結んだ自慢の艶やかな金髪が、汗でべとべとになっているのがわかる。

 男たちの視線を釘付けにするこれまた自慢の大きな胸も、走っていると、上下にぶるんぶるんと揺れてしまって痛い。


 もちろん、下着だけではなく、実は魔術でも胸を支えていたのだが──これかれもう五時間以上走っている。

 それだけの長時間を集中しながら、魔術を維持するだけの力は、今のイザベラにはない。


 というか、あの女を除いて、この庭園の生徒で出来る者などいない。



「あんの……クソ、教師……っ! ぜったい、ゆるさないわ……ッ!」

「そんなこと、言っては駄目ですよ」



 クソ教師こと、テオ=プロテウスが指定した距離を走り終えた後。



 ゴール地点まで何とか辿り着き、荒い呼吸を繰り返しながら怨嗟の声を吐き出していると、嗜められるような声をかけられた。


 顔をあげれば、例外女こと──カリナ=ルドベキアがこちらを見下ろしていた。


 どうやら、イザベラが最後に到着したらしい。

 自分よりも遅いと思っていたクラスメイトも、地面に寝っ転がって疲労困憊の様子を見せながらも、ゴール地点には既に着いていた。



 中でも、例外なのはやはりカリナだ。



 特に疲れた様子はなく一人だけ飄々としながら、他の生徒の面倒を見ている。

 カリナは爽やかに髪を掻き上げ、運動服を少しだけ捲り上げて汗を拭う。


 ちらり、と見えたお腹にはうっすらと線が入っており、小さなおへそは可愛いらしい。女性の自分から見ても、羨ましく思ってしまうほどの健康的な身体。


 少しだけ──贅肉があると自覚するイザベラとは大違いだ。


 やっぱり間食をやめるべきか、と悩ましく思案していると、カリナから目の前に水筒を差し出された。



「……なんのつもり?」

「見ての通り、お水です。あれだけ走ったのですから水分補給はした方がいいですよ」

「いらないわ」

「でも──」

「うっさいわね、いらないって言ってるでしょう! 私はあんたの助けは借りないわ!」


 立ち上がりながら、乱暴に手で水筒を押しのける。

 カリナが何かを言ってくるが、聞く耳は持たなかった。

 イザベラは無視をして校舎へと歩いていく。


 ムカつく。

 庭園に入ってから、イザベラはずっとムカついていた。


聖女の庭園リリィ・ガーデン》は名門ではあるが、かつての隆盛はもうない。

 今、真に優秀な者であれば別の学舎へ通う。


 イザベラはそんな二流の学舎にしか入れなかったが、しかしそれ故に自分は一番になるものだと信じていた。


 魔術師は一般的に貴族の家系から輩出されることが多い。

 ルミエール家といえば、貴族のなかでも何人もの著名な魔術師を生み出したとして有名だった。



 実際、兄弟姉妹たちは既に将来を約束された者ばかりだ。



 だが、イザベラは兄弟たちほど優秀とは言い難かった。たくさん努力し、魔術に励んできた。それでも敵うことはなかった。



 ──強くあれ。



 そんな父親の言いつけを守ることはできなかった。

 しかし、イザベラは諦めなかった。


 学舎として一流ではないが、名門ではある《聖女の庭園リリィ・ガーデン》。



 数多くはないが、毎年、優秀な魔術師が現れる学舎での再起を懸けたのだ。


 ここで一番を取れれば、私は認められるかもしれない。

 いや、次点に甘んじているのだから、一番を取らねばならない。

 そんな背水の陣の想いで、イザベラは覚悟を決めて入学し。


 ──そして、規格外の化け物に出会ってしまったのだ。


 カリナ=ルドベキア。

 イザベラはカリナの何もかもが気に食わなかった。


 平民出身であること。

 自分よりも美人で、美しい身体を持っていること。

 底が見えないほどの魔力量を持つこと。

 運動神経がいいこと。

 魔術の腕は少しだけ悪いが、指摘されたことはすぐに修正してくるほどの努力家であること。魔術戦では自分よりも圧倒的な戦績を誇っていること。



 そして、何よりも──聖女のごとき精神性を持っていること。



 さっきのようなやり取りは何度もしている。

 それでも、彼女は毎回手を差し伸べてくるのだ。

 自分が必死でクリアしたことを、平気な顔でやってのけながら。


 ──大丈夫ですか、と。


 ムカつく。

 ムカつく、ムカつくムカつくムカつく!

 


 しかし。

 イザベラにとって目下の最もムカつく奴は、カリナではなかった。

 


 一週間前、教師としてやってきたテオのこと。

 今、思い出してもイライラしてしまう。

 


 時間は、始業日の翌日に遡る。

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