21. Before the dawn

1.

          *

 


 


 海風の匂いがした。どこからか、風が絶え間なく吹き込んできている。



 

 20階、アパレルを扱うフロアは、各テナントがブランドイメージを打ち出した内装や壁の色でアピールしている。しかし、今は消灯されているので、テナントの個性は暗闇にかき消されている。

 

 シンプルなファッション、個性的なファッション、おのおのの店の個性がディスプレイに現れる。ゆえに、このフロア全体に統一感はない。

 このフロアの外観全体は、ヴァンサンにとっては、賑やかで楽しそうだと感じる。

 一方、ジェレミーにとっては、雑多でうるさく、嫌いな風景だった。


 

 20階のエレベーターホールを抜けたところには、来訪した客が一休みできる空間が用意されている。

 

 広々とした空間には、椅子と小さなテーブルがいくつか用意されていたのだが、今は綺麗に片付いている。

 休憩スペースに長々と居座らせないためにか、椅子やテーブルはプラスチック製で、タワー全体の高級感とは齟齬がある。

 

 とはいえ、宿泊客でなくても入れるエリアの中では、全面ガラスから地上と海を見渡せる、絶景のポジションとして有名だった。

 ここからだと、硝子の塔の次に背の高いビルの屋上もよく見えた。

 

 海の匂いがする風が吹いてくるのは、この休憩スペースの篏め殺しになっている全面ガラスからだった。

 

 空の色は、少しずつ薄くなっている。

 夜明けが近いのがわかったが、ヴァンサンとジェレミーにとって、それは大事な問題ではない。

 全館空調で気温と湿度、換気を、管理システムで制御している。

 だから、タワー内のフロアで、外からの風が吹き込んでくるのは、不自然なのだ。

 

 答えはすぐに出る。

 休憩スペースの全面ガラスは、一部が割れている。

 放射状に広がるヒビの中心には50センチほどの割れ目ができていて、そこから風が吹き込んでいた。

 

 そのガラスの割れ目の近くで、外を覗き込んでいた渕之辺 みちるは、人の気配に振り返る。

 この女がガラスに穴を開けたのは、狙撃の障害になる遮蔽物を減らすためだ、と気づいたジェレミーは舌打ちする。

 


「20階へようこそいらっしゃいませー!」

 さすがに一日に何十回も階段の上り下りをすると、足が疲れますよね。いいダイエットになりました。

 と、あまりにも明るく話しかけてくる渕之辺 みちるの態度が癪に障る。

 

 傷だらけでも、何度も階段を往復しても、疲労の色も見せずに、ニコニコと元気そうに笑っている。

 もはや、渕之辺 みちるは怪物にしか思えない。

 

「やり方が汚いよ、ミシェル」

 そう言う間にヴァンサンは拳を握り締め、眉間に皺を寄せた。

 いつもは温厚そうに演じさせているヴァンサンの怒り顔を、ジェレミーは鋭い視線で見る。

 

 ヴァンサンは、綺麗な顔立ちであるあまり、怒っていても、恐怖より美しさを感じてしまう。

 だから、こういう場面では、とても損をしている。

 

「最初に汚いやり方したのは、どちら様でしたっけ?」

 渕之辺 みちるは、真剣な表情でヴァンサンを見る。雰囲気が違うのは、珍しく髪を結っているからか、親睦の意味で渡したピアスをつけているからか、もっと別の理由だろうか。

 微かに感じ取れた殺気に、なぜか気圧けおされる。

 

「なんで……ここまでするのかな?」

 気圧されても、ヴァンサンは爪が食い込むほど拳を握り締め、渕之辺 みちると対峙する。

 部下を人質に取られた以上、上の者として退いてやるわけにはいかなかった。

 

「目には目を、非礼には非礼を」

 渕之辺 みちるは左手に持った拳銃をちらつかせる。夜の闇より濃い色の瞳は、ヴァンサンとジェレミーを交互に見た。

 

「オーバーすぎる」

 そう言うと、ジェレミーも、ウェストに挿したままだった拳銃を抜く。

 その瞬間、ジェレミーが引き金を引く前に、渕之辺 みちるはヴァンサンの右太腿を撃ち抜いた。

 ヴァンサンが掠れた唸り声を上げて、前のめりに倒れ込む。

 ジェレミーは足を撃たれたヴァンサンのために、手を伸ばした。

 渕之辺 みちるではなく、ヴァンサンに注意を向けてしまった、その一瞬。

 

「手負いの仲間を助けようとして、みんな死ぬ」

 渕之辺 みちるはジェレミーの右腕を撃つ。

 撃たれた衝撃で、ジェレミーの手から拳銃が零れ落ちていく。

 

 撃たれた右腕を左手で押さえ、ジェレミーはフランス語の罵詈雑言を渕之辺 みちるに喚き散らした。ヴァンサンはずっと呻いている。

 

「大丈夫、お二人とも大事な動脈は外したはずだから、死なないですよ」

 そう言う渕之辺 みちるの満面の笑みは、作り笑いだった。


 這いつくばって呻いているだけのヴァンサンと対照的に、ジェレミーは目を血走らせて渕之辺 みちるに掴みかかる。

「このクソガキが!」

 ジェレミーの血塗れの手は、渕之辺 みちるの胸倉を掴み、唾がかかる勢いで吐き捨てた。

 

 渕之辺 みちるは、ジェレミーの頬に右手をそっと添わせる。その手は妙に優しく柔らかな動きだった。

「『ファラリス』のファの字すら知らない素人が、『神の杖』を探そうなんて考えちゃいけないよ」

 黒い眼は感情を見せず、優しく語りかける言葉は、今までで一番穏やかなトーンだった。


「何言ってんだかわかんねぇよ! このクソ、殺してやる!」

 ジェレミーは渕之辺 みちるを床に押し倒す。振りかぶった拳で、何度も顔や頭を殴打する。

 殴りかかるジェレミーの隙を突き、渕之辺 みちるは抱き着くように体を絡ませる。

 この時まで決して手離さなかった拳銃を、ジェレミーの右こめかみに突き付けた。

 

 こめかみに当たった銃口の感触に、ジェレミーの動きが止まる。

「私、上の方が好きなんだ。いい子だから、下になって?」

 渕之辺 みちるは、ジェレミーのこめかみに、しっかりと銃口を押し当てながら、ニヤッと笑う。

 

 ジェレミーは腕でホールドアップのサインをし、渋々、体勢を変える。

 ベッドで睦み合う時に言われるならいいが、このタイミングで言われるのは、屈辱でしかなかった。

 

 馬乗りになった渕之辺 みちるへ、ジェレミーは唾を吐く。

 唾を着ていたシャツの袖で拭いながら、渕之辺 みちるは微笑む。

 

 さっきから、渕之辺 みちるが優位な状態になっている、としか思えない。

 

 ジェレミーは奥歯を噛み締める。

 

「ミシェル、僕に、撃たれる覚悟はある?」

 ヴァンサンは必死に、声を張り上げて訴える。

 右足を撃たれた影響で、生まれたての小鹿みたいに震えた足で立つヴァンサンが、拳銃を両手で構えていた。

 ジェレミーの手から滑り落ちていった拳銃を、呻きながらも拾っていたのだろう。

 

「逆。私はジェレミーを殺すし、あんたも私が殺す。幸運にも生き残ったとして、狙撃されたら終わり。その覚悟はある?」

 ヴァンサンの銃口は渕之辺 みちるを向いている。ヴァンサンのエメラルドブルーの瞳が不安げに震えていた。

 

「覚悟できた?」

 渕之辺 みちるはもう一度問いかけた。

 

「どう……どうする、ジェレミー?」

 ヴァンサンは救いを求めてジェレミーに尋ねる。ジェレミーは舌打ちし、そんなことも聞かないとわからないのか、と吐き捨てた。

 

 ガラスの外の世界は、静かに白んできていた。夜明けはもうすぐだ。


「お前、少しは自分テメェの頭で考えろ!」

 その瞬間、陽射しにしては明るすぎる虹色の光が、ヴァンサンの顔に当たった。

 渕之辺 みちるの耳元のピアスが、やっと顔を出した太陽の光を取り込んで、光を放っていた。

 

 ジェレミーはこの時やっと、親睦の証としてプレゼントしたピアスを、渕之辺 みちるが身に着けていると気づく。


 太陽の光と、ダイヤモンド越しの光が目に入って、ヴァンサンは眩しそうに瞳を細める。

 ヴァンサンが逆光に身構えた瞬間、渕之辺 みちるの左耳の下あたりの髪が、ざわっと震えた。

 ダイヤモンドが放つ七色の光は、ジェレミーの顔の上に降る。

 ぽとり、と床へダイヤは落ちて行った。その様はゆっくりに見えたが、実際は一瞬だ。

 

 何が起きた、とジェレミーが疑問に思った時には、窓の外から撃たれた弾丸が、渕之辺 みちるのピアスを掠めた後、ヴァンサンの右膝を撃ち抜いていた。

 今度こそ立ち上げれなくなったヴァンサンは、今までで一番大きい悲鳴を上げ、床をのたうち回る。


 

「ヴァンサン、この計画は大失敗だ!」

 ジェレミーはヴァンサンに叫ぶ。それを聞いたヴァンサンは、子供みたいに泣き喚きだす。


 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る