2.
*
ヴァンサンは憂鬱な面持ちで、硝子の塔のエレベーターに乗っている。
明るく、清潔感のある内装に映り込む己の姿は、生まれたての子犬みたいに、ひ弱だ。
エレベーターの階数表示が60階になった。
ヴァンサンが向かおうとしているのは、展望フロアだ。スイートルームにこもっていたら、ジェレミーに呼び出された。
到着を知らせる機械音の後、エレベーターのドアが開く。
展望フロアの全面ガラス張りの空間に、視界を遮って立つ柱。
その影で一人、胡座をかいて座っているジェレミーのダークグリーンの瞳が、鋭く光った。
気配のしないフロアを、ヴァンサンはキョロキョロしながら、ジェレミーのもとへ進んでいく。
「ヴァンサン、なぜ俺に連絡しなかった」
ジェレミーの声音は落ち着いていた。
しかし、質問に見せかけた詰問なので、ジェレミーは明らかに苛立っている。
漂わせる殺気は、ヴァンサンへ一身に向く。
「すぐ、戻ってくると思ってたから……」
腹の前で組んだ手をもじもじさせ、ヴァンサンが答える。
「じゃあ俺を待ってろよ。9ミリパラベラムを、わざわざあのクソガキに寄越してやる理由がわからねぇ」
続けて「呆れた」と呟き、ジェレミーは舌打ちする。
「でも、それだけの金額は払ってくれてたし」
「そういう問題じゃない」
言い訳にならない言い訳をしてみても、即座にジェレミーは怒鳴り返す。
「でもでも、武器商人は、金さえ出してくれるなら、誰にでも売るのが鉄則だよね?」
「俺たちが中立な場合だけだ! あのクソガキに俺たちが振る舞ってやる情けはない!」
ヴァンサンは肩を竦め、項垂れる。激怒しているジェレミーを宥める方法を、ヴァンサンは思いつかない。
「だから……ごめんって」
ただ心細く、震えた声で謝るのみだ。
ジェレミーがふらっと立ち上がり、ヴァンサンの竦んだ肩を両手で掴む。
「お前は勝手に一人で決めたらダメなんだよ」
逃すまい、とジェレミーに掴まれた肩は、ヴァンサンにとって鈍い痛みを感じるほどだった。
「俺の考えたやり方でやれ」
平坦な声音で話しているのに、身動きできなくなるほどの圧を感じて、ヴァンサンの眼は泳いだ。
「お前は俺がいないとダメなんだから、ちゃーんと言われた通りに動け。な?」
ジェレミーは、ヴァンサンの体を引き寄せハグをする。
冷たい眼をしたジェレミーにハグされるのは、こんなに生きた心地がしないのか、とヴァンサンは逃げ出したくなる。
「俺の教えはいつも正しかっただろ?」
ジェレミーの説教を聞きつつ、ヴァンサンは目を閉じる。
ジェレミーの言葉に、間違いはない。
地元でさんざんな目に遭って、薬物に溺れて親から見捨てられた時、ジェレミーは救い出してくれた。
ジェレミーは自分を導いてくれるから、何の心配もない、と思ってきた。
今回だって、きっと上手くいく。
氷よりも冷たい、ダークグリーンの眼が、薄く笑った。ヴァンサンの竦んだ肩は、もっと竦んでしまう。
「この島は俺たちの所有物だ、ヴァンサン。クソガキが暴れたところで、島から脱出する手段は存在しない。俺たちの掌の上で、ちゃーんと転がしているんだ。安心しろ」
ジェレミーはヴァンサンから体を離し、穏和な笑みを見せた。
これは作り笑いだと、ヴァンサンはよく知っている。重苦しい空気に半泣きの顔で、ヴァンサンはジェレミーを満足させるためだけに頷く。
「でも、タワー内の手下はもういないですよ」
突然聞こえてきた、若い女の声。ジェレミーの笑みが、一瞬で消える。
その声の主は、非常階段からひょっこりと顔を出した、渕之辺 みちるだった。
「クソガキ!!」
ジェレミーの怒りに満ちた眼は、非常階段から姿を現した渕之辺 みちるを見ている。
「ジェレミー! 落ち着」
ヴァンサンは思わず制止する声を上げたが、ジェレミーに睨まれ、黙る。
無言で責めるジェレミーの視線はヴァンサンを怯ませた。ヴァンサンはジェレミーの背後に隠れ、存在感を消す。
「お前、俺たちを下の階へ誘導させたいんだろ」
ジェレミーは今度は、渕之辺 みちるを睨みつける。
渕之辺 みちるは銃口を向けたまま、ジェレミーとヴァンサンのもとへ、どんどんと近づいてきていた。
「俺たちを狙撃しやすい場所まで誘き寄せたいんだろ?」
「わかってるなら話は早い」
ニヤッと唇を歪ませた渕之辺 みちるが、言葉を続ける。
「20階まで降りてくれたら、『神の杖』のデータを渡してもいいですよ」
「随分馬鹿にしてくれるな」
「馬鹿にはしてないです」
苛立つジェレミーに対し、渕之辺 みちるは淡々と言葉を返す。ヴァンサンはジェレミーの背後から顔を覗かせ、事の推移を見守るしかない。
「お前の男、もう死んでるかもしれないのに」
ジェレミーの言う「男」は、渕之辺 みちるが護衛として連れている軍人崩れの男。
「男じゃない、
「何だっていい」
些細な言葉の違いを訂正してくるのに呆れ、言い終わると同時にジェレミーは拳銃を抜き、発砲する。
「もう少し、静かに話せないかなぁ⁈」
ジェレミーの銃の照準が合っていないのを見抜いていたのか、渕之辺 みちるは一切動じなかった。
「ジェレミー、一度部屋に戻って、装備を揃え直そう」
「いいか、ミシェル。お前の利用価値なんか、『神の杖』のデータと名前、そのオリエンタルな顔立ちしかないんだ」
ヴァンサンはジェレミーの背中に必死に話しかけるが、ジェレミーは全く聞かず、渕之辺 みちるに話している。
「思ってたより、まぁまぁ価値ある」
ジェレミーが三点も自分を評価してきたのが意外で、渕之辺 みちるは素直に驚いていた。
「『神の杖』は存在しないって言ってるのに、聞き分け悪い」
何度も繰り返されたやり取りだからか、渕之辺 みちるは、うんざりした表情を隠さない。
「じゃあ、旧東側諸国が二年前に打ち上げた軍事衛星には、何が載ってたっていうの?」
珍しく、ヴァンサンが声を荒げる。ジェレミーの背中越しからで、少々情けなかったが。
「いや、だから、知らないってば」
しかし、渕之辺 みちるが言い終わるかのタイミングで、ジェレミーの手から何かが飛んできた。
それを見た渕之辺 みちるは全力で駆け出し、ジェレミーの手から転がった物体に背を向け、距離を取る。
まもなく起きた爆発とほぼ同時に防御姿勢を取って、耳を押さえる。
空間で巻き起こる爆炎と爆風、吹き飛ぶガラスの破片が襲い掛かってくる。
ジェレミーが投げたのは、手榴弾だった。建物被害を減らす意思はないのだろう。
遮蔽物の少ないフロアだったせいで、全身にガラスの破片を浴びる結果になった。
体が木っ端みじんに吹き飛ばされなかっただけマシだと、渕之辺 みちるは思うしかなかった。
「”クソが”」
渕之辺 みちるは、日本語でも、フランス語でも、英語でもない言語で毒づく。
フロアを少し歩いてジェレミーとヴァンサンの姿を探すが、見当たらない。
一面には、フロアのインテリアや壁だった破片が、爆風で吹き飛ばされて散乱していた。
ディスプレイに使っていたらしきワインボトルも、下半分が割れて欠けた状態で転がっている。
フロアの絨毯に引火した炎の煌めきを受けて、ワインボトルの割れた切り口は鈍く光る。
光を弾くボトルを、渕之辺 みちるはじっと見つめていた。
ワインボトルの首部分には、ピンク色のリボンが結ばれていた。渕之辺 みちるはリボンを解くと、真っ直ぐな黒髪を手早く一つに結う。
周囲の気配を窺いながら、ボトムスの後ろポケットに仕舞い込んだ、アクセサリーケースを取り出す。
ケースの中には、ヴァンサンから手渡された、
照明の落ちたフロアでは、ダイヤモンドは光り輝かない。
だが、わずかな光を取り込むと、磨き削れた表面のカットは、心許ない光を幾重にも反射させて、一瞬の輝きに昇華できる。
輝きを見て、渕之辺 みちるは唇をわすかに緩ませた。
すぐさま屈みこむと、おもむろに右耳へピアスを刺した。激痛が耳に走って、思わず小さく息を吐く。
ピアスホールもない状態で、皮膚に針を貫通させている状態になるので、血が出てくる。
左耳もピアスを刺した。
ちなみに、消毒もせずに無理やりピアスホールを作るのは、まったく推奨されていないやり方である。
ぶら下がる涙の形のダイヤモンドは重い。
生傷でしかないピアスホールは、ダイヤモンドの重みに引っ張られ、耳たぶが熱を持っている感覚になる。
渕之辺 みちるは舌打ちした後に、ゆっくり立ち上がる。
炎の色が映り込む黒い瞳は、生き生きと輝いていた。
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