18. Encircling net
1.
*
ヴァンサンがいた100階のスイートルームへは、支配人が教えてくれた設計図にない裏通路と非常階段を併用して移動した。
上っている間に、ヴァンサンの部下と遭遇したせいで、愛用の
だが今は違う。弾薬がしっかり手に入った。堂々と非常階段を、ステップを何段も飛ばしながら、軽快に下りている。
渕之辺 みちるは、不意に立ち止まった。そこは、85階部分にある、非常階段の踊り場だった。
「こんなにくれるとは思わなかった」
階段を駆け下りている間に、ポケットの中身が溢れ出そうになっていた。
ボトムスのポケットからは、今にも弾薬のケースが飛びださんとしていた。渕之辺 みちるはやや強引に、金属製のケースをポケットへぐいぐいと押し込む。
さっき、スイートルームにいたヴァンサンに、弾薬を売るか売らないかを迫った。
ヴァンサンは呻き声を漏らしながら、頭を抱え、それから9ミリパラベラム弾をたんまりと渡してくれた。切羽詰まっていたとはいえ、ヴァンサンには、少々手荒い真似をしてしまった自覚はある。
商売だから、と言い訳をすれば、この世は大体のことが正当化される。武器売買も戦争も、言ってしまえば商売だ。
どうしてもポケットからはみ出てしまうケースに手を焼き、渕之辺 みちるはその場に屈みこんだ。そこで、ポケットの中身を一旦、全て出す。
踊り場の床に並べられた、ポケットに収まりきらない弾薬ケースと、チョコレート三個。
渕之辺 みちるの中は、難しい顔をして、チョコレートを手に取る。渕之辺 みちるにとって、これは苦渋の決断だった。
それぞれ異なる柄の包装のチョコレートの三個、その包装を次から次へと剥く。そして、口の中へチョコレートを放り込む。
彼女の中で、違う味のチョコレートを同時に食べるのは、いわば悪魔の所業だと思っている。しかし、チョコレートをこの場に捨てていくのは惜しい。味わっている時間もない。ならば、背に腹は代えられない。
甘さ。コーヒーの味。クッキーの食感。クリームの柔らかなくちどけ。
一個ずつ単体で食べれば、もっと美味しいはずなのに、ときつく目を閉じ、悔しさを噛み締める。
口の中で混ざり合う味も決して悪くないのだが、やはり単独で食べたいと思う。口の中は甘いが、胸に沸く感情は苦い。
小さく溜め息をついた渕之辺 みちるは、拳銃片手に、進行方向である下段を見た。
その渕之辺 みちるの視界に現れたのは、階段を上ろうと踏み出しかかっていた青年の姿だった。
ダークグリーンの瞳に、シルバーグレーの髪、鷲鼻。ジェレミーだ。
眼が合うと、お互いに笑みを浮かべた。
「やっと現れたか」
ダークグリーンの瞳は、爛々と輝く。獲物を見つけた肉食獣の眼によく似ている。
「トイレ長引いちゃってごめんね」
ジェレミーのダークグリーンの瞳に映る渕之辺 みちるは、軽薄に笑った。
「あぁ、すっかり忘れてた。君は、トイレに行くって言って消えたんだった」
距離の詰め方を見誤ったヴァンサンの態度に、機嫌を損ねた渕之辺 みちるは、トイレに行くと言って、そのまま姿を消した。
エレベーターを使用する可能性は低いと踏んで、非常階段に手下を配置した。だが、その手下はほとんど死体になっている。
「今から展望フロアへ戻りましょうか? あと、さっき、ヴァンサンのところに顔を出してきました」
いまさら展望フロアに戻る意味がない、とわかっていながら、渕之辺 みちるは嫌味たらしく返した。
「ヴァンサンに? 何を吹き込んだ?」
ヴァンサンのもとへ行った、と聞いたジェレミーの表情が途端に険しくなる。渕之辺 みちるは、口元を緩ませた。ジェレミーが動揺するのを面白がっていた。
性格が悪い女だ、とジェレミーは心の中で毒づく。
「失礼ですね、9ミリパラベラムが余っていたら欲しいって言いに行っただけです」
渕之辺 みちるは、ジェレミーが予想もしない行動をとっていた。
「それでヴァンサンは、売ったって?」
ジェレミーの中に、一抹の不安がよぎる。
戦闘能力の低いヴァンサンには、スイートでじっとしていてもらおうとしたのが間違いだった。
「結構たくさん」
嬉しそうな顔を隠しもせず、びっくりしました、と付け加えてくる。嬉しそうなのは、9ミリパラベラム弾が手に入ったから、だけではない。
「あの馬鹿」
ジェレミーはヴァンサンへの恨み言で爆発しそうになるのを抑え、その一言を発するのみだった。
「でもしょうがないでしょう? 武器商人はいつ何時でも、求める者へ武器を与えるのが仕事なんだから」
渕之辺 みちるの言葉は正論に聞こえる。
だが、ヴァンサンにそれを吹き込み、弾薬を手に入れるのは正論でもなんでもない。強奪者か侵略者のやり方だ。
「イヴァンから薫陶を受けると、そういう思考になるのか」
イヴァンが生きていた頃を知る武器商人たちは、稀代の武器商人と呼ばれた男の仕事ぶりを見てきたのだろう。イヴァンと顔を合わせる機会もなかったジェレミーにとって、イヴァンの影響力の大きさは、ある種の憧れに近い。
「いいえ。これは私の育て親の教育」
だが、ジェレミーの考えを渕之辺 みちるは一蹴する。
「ジェレミー、私と少し、話をしませんか」
そう言って、渕之辺 みちるは糸目になる笑い方をする。虹彩が見えなくなり、感情が見えない。
「断る」
ジェレミーは硬い表情を浮かべ、首を横に振る。
今の渕之辺 みちるは堂々としている。89階のフレンチ・レストランでディナーを囲んでいた時の、強がっているだけの姿とは空気が違う。
その飄々とした態度に、まるでこちらが追い込まれている、とジェレミーは錯覚しそうになった。
ジェレミーは体を揺らさずに、密かに息を吸って、吐き、呼吸と思考を整える。
「『神の杖』の情報を渡すにしても、ここまで暴力的に振る舞われると、私も考えなきゃいけない」
「暴力的なのはお前だ」
笑い声を交えて言った渕之辺 みちるに、ジェレミーは声を荒げる。
「その細い腕で、俺たちの部下を何人殺した? ディナーの時、お前はその口で、他人の死体と血で稼いだ金は汚い、と言ったな?」
渕之辺 みちるは言い返さない。作り笑いの仮面をしっかり被っている。
「綺麗事を言うその口が、一番汚いと覚えておけ」
死人と血を嫌っていると言いながら、率先して血を流させたのは渕之辺 みちる自身だと、吐き捨てる。
「ジェレミー、あなたもなかなかの食わせ者ですけどね」
目の前に現れた黒い眼は、黒が濃すぎて映るもの全てが反射する、黒曜石みたいだった。
「最初は、ヴァンサンが取引や交渉事担当としてメインで動いていて、あなたはフォロー役だと思っていた。けど、ヴァンサン・ブラックは全部、あなたが組み立てた虚像だった」
ジェレミーは、フォロー役どころか、巧みな人形使いだ。ジェレミーは己の手足のごとく、ヴァンサンを動かしてきた。
「ヴァンサンはあなたの忠実な
渕之辺 みちるは小さく笑って見せた。ジェレミーは、その笑みが憎たらしいと思ってしまう。
「最初に会った時から、お前のことは気に入らなかった」
ジェレミーは舌打ちする。
「ヴァンサンじゃなく、俺へ先に握手を求めただろう? あれは何故だ」
安宿の窓辺で、初対面を果たした時だ。
ヴァンサンがジェレミーを紹介した時、渕之辺 みちるは手を差し出した。隣にいるヴァンサンに視線も遣らずに、真っ先に。
「そうだっけ? 覚えてないや」
その出来事から一日も経っていないのに、本当に覚えていないらしく、渕之辺 みちるは首を傾げる。
「”その時は、しょうもねぇのが二人も現れた、って思ってただけだから”」
日本語で言われた。何を言われたのか、ジェレミーには詳細な部分はわからないが、ニュアンスだけで察するに、暴言の一つや二つ吐かれたのだろう。
「クソったれが」
ジェレミーは、階段のステップからジャンプして、踊り場へ舞い降りるのと同時に引き金を引く。
その視界の端で何かが動いたのが見えた。
手のひらサイズの、黒っぽい楕円形の小さなボール。さっと血の気が引く。手榴弾だ。
渕之辺 みちるは、ジェレミーを凝視したまま、手榴弾を階段のステップ目掛けて投げていた。そして、さっきジェレミーが撃った弾は当たっていないのも確認できた。
とっさに爆発から逃げようとしたが、目の前で広がるのは白い煙だった。
渕之辺 みちるが投げたのは、発煙手榴弾の方だ。
視界があっという間に塞がれる。
「どこに逃げた」
ジェレミーは煙を払いながら周囲を見回し、闇雲に引き金を引いた。何も見えない以上、手応えは感じられない。
階段を上り下りして影を探すが、見当たらない。
「クソ野郎め」
ジェレミーは手摺を拳で叩く。燃え滾る怒りに満ちた緑色の眼が、真っ白な壁と階段しかない空間を睨む。
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