16. Invisible hand

1.


          *



 ヴァンサンがこの島に来たのは、今日が初めてだ。もちろん、ジェレミーも同じく。

 

 真下に広がる島の風景は、夜の闇の中では電灯やネオンの光で照らされている。

 

 硝子の塔グラス・タワーが、この島で一番高い建物なので、全ての建築物が背の低い建物に見えてしまう。実際、周辺の建物はそこまで背が低いわけではないのに。

 

 一方で、海岸線沿いは薄暗い。街灯とまばらな建物の光しか見えない。

 細い月の光を反射した波が、何度も繰り返し蠢いているのが見える。

 

 ヴァンサンは波を見つめながら、小さな頃の出来事を思い出していた。

 

 あれはまだ、ジェレミーを引き取る前の夏だった。両親とシチリア島へ旅行した時に行った海。

 

 とっぷり陽が暮れる前、まだ空が茜色をしていた時間帯の海だった。

 その時間ともなると、とっくに人気ひとけはなくなっていた。波音以外の音がない静けさに、この世界にいるのは両親と自分だけではないのか、とも思った。

 

 『この波に自分と両親が飲み込まれて、もし両親が自分の手を離してしまったら、一人ぼっちになってしまう』

 何に影響されたのかわからないが、そんな不安が胸を覆い尽くした記憶。


 ヴァンサンは視線を島の風景から逸らし、ガラスに反射した自分の姿に向けてみる。

 

 彫りが深く、美しいと評される顔。だが、ヴァンサンがガラスの反射越しに見る顔は、まるで白いシーツを被ったお化けみたいに見える。

 

 無理やり口角を上げて笑い顔をつくると、やっと自分の顔だと認識できた。

 そんな風に認識が混乱するのは、薬物中毒だった時期以来で、ぞっとした。

 

 ガラスに反射した自分の姿、部屋の内装。

 何の気なしに内装の方へ意識を向けた瞬間、ヴァンサンは映り込んだものを見て、即座に振り向いた。

 顔は心なしか青ざめている。


 今、この部屋にいるのは自分だけ。

 それなのに、ソファに人がいた。

 真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばした、黒い瞳のアジア人の若い女が。60階の展望フロアで、自分が怒らせてしまった、あの女が。

 

 正直、どんな日本のホラー映画よりも怖い、出現の仕方だった。

 

 

「ミ、シェル」

 驚きのあまり、声が掠れていた。掠れている、と気づいた時にはもう、名前を呼び終えている。

 ソファにちょこんと座っている渕之辺 みちるは、近くにあったクッションへ手を伸ばし、抱き抱えた。その手に、拳銃ベレッタ92はない。

 

「さすがスイート。私がいたセミスイートとは格が違うね」

 渕之辺 みちるは部屋を見回して、薄く笑う。

 自分がぼんやりと物思いに耽っている間に、渕之辺 みちるは、さっさとソファまで侵入している。

 どこから侵入したのだろう。非常階段やエレベーター、そしてこの部屋にも、部下を配置していたはずなのに。

 

 ヴァンサンの背中に、嫌な汗が落ちる。

 

 どんなに警備を分厚くしても、ありとあらゆる手段を使って、突き破ってくるに違いない。

 液体みたいに、音も立てずに、隙間を見つけたら、必ず入り込む。

 

「ジェレミーはどこへ?」

 ディナーのテーブルで、料理を囲んで一緒に話していた時のように、和やかに微笑み、ジェレミーの居場所を尋ねてくる。

 貼り付けた作り笑いは、ひどく無機質で、体温を感じない。


「僕がいるのに、ジェレミーを気にするなんてショックだなぁ」

 軽口を叩きながら、ヴァンサンはネクタイを緩め、渕之辺 みちるの向かい側に座る。

 この仕草が一番カッコよく見えると、経験上知っている。

 渕之辺 みちるは、ニヤリと口角を上げた。

 だが、その笑い方は、喜んでいるのではなく、冷やかしている。


「とっくに逃げたと思ってたのに」

 渕之辺 みちるがまだ硝子の塔にいるとは、本当に予想外だった。

 てっきり、旧リエハラシアの軍人とか言う、あのいかつい護衛ボディーガードと合流すると予想していた。

 合流したところを押さえれば、『神の杖』の情報を確実に手に入って一挙両得だと、ジェレミーが言っていた。

 

「追われるのも迷惑だからね。さっさと片付けた方がいいなって」

 クッションを抱えて座っている渕之辺 みちるは、歳相応の幼さを演出したいのだろうが、ミスマッチだ。

 

 感情を見せない黒い瞳は、じっとりとヴァンサンを見つめ、何かのふるいにかけている。


 何度も会ってきた、老獪な大物の武器商人たちに通じる腹黒い態度と同じだ。

 ヴァンサンを見る優しい顔の裏で、底の浅い人間だと馬鹿にする眼だ。


「で、ジェレミーはどこ?」

 ヴァンサンが話を変えようとしてみても、最初の質問に答えが返ってきていないのを、渕之辺 みちるはちゃんと覚えていた。

 

「支配人に用があるって言って、90階に降りたよ。すぐ戻ってくる」

 仕方なく、答えた。

 すると、渕之辺 みちるはまた口角を上げる。

 この笑みは、冷たく突き放してやろうとする時に見せる。

「戻ってこれたら、ね」

「嫌な言い方する!」

 渕之辺 みちるがぼそりと言うので、苦笑いしてしまう。

 気付かぬうちにこの部屋へ侵入した、この女が呟くから、嫌な真実味が出る。

 

「リエハラシアにあった『神の杖』開発データは、もう存在しない」

 すっと真顔になった渕之辺 みちるは、前置きなどなく、話を切り出した。

 

「データは消えちゃった」

 そう茶化すように言う渕之辺 みちるの声は、抑揚がない。

 クッションを抱き抱えながら、表情筋が全く機能していない顔が、ヴァンサンの一挙手一投足を見つめている。

 

「どうしてそれを、知ってるのかな?」

 数々の戦争で暗躍してきた武器商人が、死の直前まで追い求めていた「某国の新兵器」。

 まことしやかに噂されていたものが、実在する/していたのを、はっきり認めさせた。

 

 ヴァンサンは口元を笑う形に歪ませる。

 

「そのデータは私の養父がリエハラシアから持ち出したものでね」

 渕之辺 みちるは、感情を顔に出さず、淡々と言う。

 

「私の養父は、日本人だけど、生まれも育ちもリエハラシア。日本に来る前は、リエハラシア軍に所属していた。だから持ち出せたんだけど、まぁいろいろあって、消えた」

「その辺の話はよくわかんないけど、お父さんから、ミシェルに『神の杖』の開発データを託された可能性は捨てきれないし」

 渕之辺 みちるの養父が何者だろうと、生きていないなら、大した興味はない。

 だが、

「あぁそっか! ミシェルの護衛も旧リエハラシアの軍人だもんねぇ」

 ここで点と点だった要素が、線になった。やっとピンときたヴァンサンは手を叩く。

 渕之辺 みちる眉間に、わずかに皺が寄った。ここに来てやっと見せた、心の揺れだ。

 

 もう一つ知りたいのは、リエハラシアの元軍人の護衛に、『神の杖』の情報を持たせているのか否か。

 

 白状させるためには、どうするか。

 

 こういう時にジェレミーがいないのは、歯がゆすぎる。

 これまでの交渉ごとには必ず一緒にいたのに、今に限ってジェレミーがいない。

 

「私のを殺すために、クルネキシアの人間を呼び寄せるなんて、最高に趣味が悪いですよ」

 渕之辺 みちるは、薄く笑いながら吐き捨ててくる。侮蔑と怒りの混ざった眼差しは、ヴァンサンを睨んでいる。

 

「心配しないで。まだ成功してないから」

 そう言った後、ヴァンサンは、まだね、と付け加えた。

 

 男女間に友情が成立するかは、人によって意見が異なる。

 ヴァンサンから言わせれば、男女に友情など存在しない。もちろん、存在する、と主張する人間がいるのは理解している。

 わざわざ説き伏せる時間が惜しいので、渕之辺 みちるの主張に食いつきはしない。

 

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