2.
*
支配人が90階のホテル受付カウンターに戻ってきた時、長い黒髪のアジア人の女も一緒に現れた。
いつ終わるかわからない待機時間に、スタッフたちは、疲労が隠せない。
支配人の隣にいる女の姿を、怪訝そうに眺めていたり、そもそも興味がないように目を逸らしたりしていた。
長い黒髪の女は、フロアに並んで次の指示を待つスタッフたちの前に立つと、にこっと笑いかけた。
笑っているのに、感情がこもっていない女の笑顔に、スタッフたちは反応に困っていた。すると女は、不意に左手を挙げた。
「ヴァンサン・ブラックにお金でつられちゃった人、挙手ー!」
フロアに、黒髪の女の、のんきとも思える声が響いた。
待機中のスタッフ同士が、顔を見合わせたり、薄っすらと周囲の動きを探っている疑心暗鬼な空気が流れた。
「フチノベ様、その質問はスタッフたちが困りますのでお控えください」
支配人は穏やかな笑みで、首を横に振る。
「ちゃんと名乗り出たら、怒らないよ。なーんて」
フチノベ様、と呼ばれた、セミスイートに泊まる客は、手を下げた。
新オーナーであるヴァンサン・ブラックから連絡を受け、ホテル側は急遽、セミスイートの部屋を用意した。
その経緯があるので、支配人が「フチノベ様」と呼んだ時に、スタッフはこの女が何者か、すぐにわかった。
「それはまぁ、どうだっていいんです」
渕之辺 みちるはにっこりと笑った。作り物の笑顔は怒りを隠しているだけに見えて、スタッフの間には緊張が走る。
支配人の隣にいるのは、フチノベ ミチルだ。
「私はヴァンサン・ブラックをオーナーだと認めていないので、オーナーとは呼びません。私がここから話す中で、オーナーと言ったら、今までのオーナーのことだと思って聞いてください」
フチノベ ミチルは、スタッフの顔を一人ずつ確認していく。俯いている人もいれば、目を合わそうとしない人もいる。
「ヴァンサン・ブラックが今後、この島をどうするのかは明確でない。個人の考えとして、オーナーのやり方に窮屈さを感じて、ヴァンサン・ブラックに賛同するなら、尊重するので安心して」
少しだけ場の空気が緩む。溜め息や、安堵から出る小さい吐息が、静かなフロアにさざ波のように広がる。
「ここでみなさんに一つ、確認しておきたいことがあります。この島は誰のものであるかという点」
人差し指を立てた左手が、高く掲げられる。
「国? 土地の権利者? もちろん、法的にはそう」
喋りながら、人差し指同様に中指も立てる。二本の指が立った。
「その一方で、もともと住んできた、あなたたちのものでもある」
薬指を立てて、指は三本になる。
「私が何を言いたいか」
先ほど俯いていたスタッフの顔が、上がっていた。話し続けるフチノベ ミチルと眼が合わせる人間が、さっきよりも増えていた。
「オーナーがあなたたちの暮らしに、そこまで干渉してこなかったのは、本業が忙しかったというのもある。けれど」
バカンスを楽しみに訪れるだけなので、オーナーは一年に一回か二回しか来ない。管理や実務を任されたケリーは、一人で切り盛りしていたようなものだ。
「オーナーは、もともとこの島の住人であるケリーを大事にしていたから。島のことならケリーに任せておけばいいと信じていた。
そして、ケリーは島で暮らす皆さんのことを、よーく知っている」
フチノベ ミチルは立てていた指を人差し指だけにして、その指先で自らのこめかみを差す。
「一人ひとりの名前、住所、家族構成、なんなら血液型とか星座まで。ケリーの頭の中には、全部インプットされている。気持ち悪いね」
「フチノベ様」
窘めるように、支配人が渕之辺 みちるに小声で囁いた。
「いや、でも、ケリーの管理や監視体制、ちょっとキツすぎるから」
と言い訳がましく呟いてから、渕之辺 みちるは話を仕切り直すために手を叩いた。
「というわけで、ケリーとオーナーに力を貸してもいいよって人は、その足でケリーの店へ行ってくれると助かるな、と。夜明け前までに」
それを聞いたスタッフたちは隣同士に座った人間と顔を見合わせたり、どうするか尋ねたりする。
「そうじゃない人は、この建物はさっさと出て行って、お
口を閉ざしてフチノベ ミチルを睨むように見ている人間もいれば、眉間に皺を寄せて難しい顔をしている人間もいる。
「たとえこの状況で帰宅した人がいても、それを責めるような対応を、ケリーはしない。何度も言うけど、個人の意志はちゃんと尊重する」
フチノベ ミチルは声のボリュームを落とさず、フロアに聞こえるように、そう言った。
一人、また一人と、スタッフたちがエレベーターの方へ向かって歩いていく。彼らがどこへ向かうかは、渕之辺 みちるには把握できない。
家に帰る者もいるだろうし、この足でケリーの店へ向かう者もいるだろう。
「支配人はどうされますか?」
自分の隣から動かない支配人に声をかけると、支配人は余裕たっぷりに微笑んだ。
「私、これでもアシュリー様の
そう言うと、支配人は、受付カウンターの壁へ顔を向け、暗にそこに何かあると匂わせる。
「アシュリー様が、このタワーを建てる際に用意していた、隠し通路へご案内します」
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