3.
「俺は、お前の才能を高く評価している。俺に評価されて、お前が喜ぶとは思っていないが」
男のスマートフォンが、また鳴った。
バイブレーションの振動が窓枠とぶつかって、不快な音になっている。
「戦争さえしていなければ、良き隣人になれたかもしれない」
男は会釈するようにアリスへ軽く頭を下げてから、尻ポケットにしまっていたスマートフォンを取り出し、左掌で包む。
頑なに、着信に出ようとはしなかった。
「俺を殺すために、どれだけ金を積まれた?」
男の灰色の眼が、刺すようにアリスを見た。
アリスは首を大きく一回、横に振る。
「金額の問題じゃない」
この男を殺して、金をもらおうと思ったのではない。
自分の感情を整理するために、できることをしようと思っただけだ。
「それは失礼した」
静かに詫びる。
男の手元にあるスマートフォンは、一度着信が途切れたが、また鳴り出した。
「その高潔なプライドが、ヴァンサン・ブラックに利用されたのは、残念だ」
利用された、と言われた瞬間、アリスの眉根が寄る。
アリスだって理解していた。
わざわざ梟の居場所を教え、ここまで連れてきたヴァンサン・ブラックには、もっと別の目的があるだろう。
だが、それはアリスにとって重要な問題ではない。
「どこの馬の骨かもわからないヴァンサン・ブラックに、お前の崇高な目的である復讐を引っ掻き回されるのは、許せるか?」
男は仰々しく言うが、アリスの目的を「崇高」などとは、1ミリも思っていない。
皮肉っぽく、人の神経を逆撫でする言い方を選んで喋っている。
「ヴァンサン・ブラックは、俺たちの因縁には無関係だ。本当の目的は、この島の権利の強奪。
だが、それはもう果たしたし、ヴァンサン・ブラックがこれ以上、お前に協力する義理はない」
アリスはふふっと小さく笑った。
「そうね。だからもう、誰にも邪魔されずに、向き合える」
アリスの笑みに、男は少し困惑の色を見せる。
おそらく、この窓辺に現れて初めて見せた、表情の揺れだった。
男は部屋の壁、ライオニオがいる隣の部屋と隔てる側の壁を指差した。
「お前の連れの、あの、ライオン」
「ライオニオ?」
男はライオニオの名前をロクに覚えていないので、アリスに訂正される。
「そう、そいつ」
指差した手を下ろしながら、男は頷いた。
「狙撃を教えてないんだろう?」
「あの子は軍人じゃない。私の手伝いをしているだけ」
ライオニオの話をする時だけ、アリスの緊張がわずかに緩む。
アリスは自覚していないが、男の眼には、明らかな変化だった。
「あいつは戦力にならないだろうが、性格がいい。ああいうのは、大事にした方がいい」
ライオニオが言っていた通りだった。「家族は大事にしろ」と、アリスにも言ってきた。
アリスは眉間に皺を寄せ、男の顔を見る。
先ほどまで見えていた困惑の色は消え、無表情な灰色の眼が、アリスを見つめているだけだった。
「お前の家族は、お前の無事だけを願っている」
ライオニオなら、そう振る舞うだろうと想像がつく。
この十年、ぎこちないながら、かりそめの家族として必死に生きていた。
母親を砲撃で亡くし、父親は戦場帰りで精神を病んだ。頼れる親戚もいない。アリスと同じ、寄る辺のない生き物。
「羨ましいな」
羨ましいという割には、表情や声音に変化がなく、どこまで本気で言っているのか読めない。
「俺の帰りを待つ人間はいない」
男はぼそりと呟いたが、それを聞いたアリスは納得いかない表情を見せる。
「あの子は?」
アリスの脳裏に浮かぶのは、長い黒髪のアジア人の女。
愛想のいい笑顔をいつも貼り付けているが、涼しげな切れ長の眼は、感情を見せない。
男は迷惑そうに舌打ちする。
「あいつはただの腐れ縁」
声音に、初めて感情がこもっていた。
あまりに冷たく突き放すような言い方で、アリスが島で目撃した二人の姿から連想したイメージと、違いすぎる。
「あぁ、そう? そうなんだ……。それ、さっきから鳴ってるけど、平気?」
男の態度に納得はできない。
だが、それよりも気になるのは、男の手の中のスマートフォンだった。
今も振動し続けていて、そろそろ静かにしてほしいと思った。
「連絡が多すぎて、俺もうんざりしている。あと、さっさと銃を下ろせ。気分が悪い」
男はスマートフォンの画面を忌々しそうに見ながら、アリスに言い放つ。
戦意を殺がれたアリスは、静かに腕を下ろした。念のため、引き金に指はかけたままにしてあるが。
「その連絡、今話してた、あの子から?」
連絡のしつこさは、例の女からかと思ったのだが、
「いや。CIA」
男は予想外の答えを返してきた。
「CIA?」
アリスは驚きを隠さない。
「この島のオーナーだった人間は、メキシコ国境辺りを仕切るギャングだ。それなら、合衆国の捜査機関に問い合わせた方が早い」
アリスは、島の権利の話など聞いていないので、男が端々で話題にしている内容が、完全には把握できていない。
この島の権利を持っていた人間から、ヴァンサン・ブラックが強引な手法で権利を奪っていっただろうと、話の流れでなんとなく理解した程度だ。
「そのギャングをハメたヴァンサン・ブラックの買収劇について、調べている」
男は応答に出ず、胸ポケットにスマートフォンをしまう。
煙草でも入っているのだろう胸ポケットは、スマートフォンが入ってきて、パンパンに膨れ上がっている。布地が重みに引っ張られ、無様になっていた。
「あの子のために調べている?」
CIAの手を借りるほど、必死なのだろうか。
「まさか。ヴァンサン・ブラックには、勝手に因縁試合を用意されて最高に気分が悪いから、最大限の敬意を払おうと思っただけだ」
この嫌味ったらしい男が言う「最大限の敬意」とは、おそらく相手にとって災難でしかないレベルの仕返しだろう。
「あいつは一人でどうにかする。というか、してもらわないと、ただの足手まといでしかない」
あいつ、はあの長い黒髪の女のことだろう。
何かしらの感情を持って、行動を共にしていたと思っていたので、足手まといとまで言うとは思わなかった。
「ちょっと冷たいんじゃない?」
「優しさで生き残れるほど、平和な世界じゃない」
少し呆れながら、アリスは男に言う。すると、男は鼻で笑った。
思考に染み付いた血腥さは、自分たちを皮肉屋にした。
「で、ここに来た目的は何?」
殺されるリスクを取ってでも自分の前に現れたのは、演説をしたかったからじゃないだろう。
武器を持たずに、正論で殴りに来たのか。それは効率が悪いし、そんなことをしている暇はないだろう、と言ってやりたくなる。
男は胸ポケットに手を滑らせ、何かを取り出す。今も鈍い音を立てて振動しているスマートフォンを出すのかと思ったが、手の中にあるのは、四角い小さなキャンディのような包みが二つ。
「ヴァンサンを徹底的に潰すために、お前の手を借りられたらいい、と思った」
男はそう言いながら、器用に片手でジャグリングの真似事をしてみせた。
「……はい?」
お互いの立場も顧みず、男の口から臆面もなく発せられた言葉に、アリスは心底不愉快そうに顔を顰めた。
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