2.
「クィンザクアでは、うちの軍から期待されていた、優秀な後輩が死んだ」
男は低い声で、しかし明瞭に言う。
「お前が、スコープに命中させて右眼から脳を撃ち抜いていったヤツだ。敵ながら、実に見事だった」
声音の端々に滲み出る、感嘆と苛立ち。完全に皮肉だ。
男が喋る合間に、鈍い振動音が聞こえてくる。集中を切らす、嫌な音だった。
「俺は
振動音がやけに大きく耳に届くのは、男のボトムスの尻ポケットに入っているスマートフォンが鳴っているからだ。
ポケット部分が窓枠と接しているので、音が増幅している。
「嘘つきで、命知らずね」
バイブレーションの音に気を取られながらも、男が
一人で狙撃手と観測手をやるなど、あまりに無茶だ。
それをやってのけてきたのだから、やはり厄介な相手だと、アリスは思う。
「戦災孤児は、クルネキシアでもリエハラシアでも、珍しい話じゃない」
アリスの身の上話に感化されたのか、男は敵国――リエハラシア側の話を始める。
「
とはいえ、俺は生まれてすぐ捨てられたから、詳しい出自はわからないんだが」
アリスは奥歯を噛み締める。
戦時下の婦女暴行など、
世界中の紛争地で、幾度となく繰り返されてきた、当たり前にある
クィンザクア補給基地の面々は、そんな人間じゃなかったと、アリスは信じている。
だが、それはクィンザクアにいたからで、前線に出てリエハラシアへ侵攻している時ならば、彼らはどうしていただろう。
狙撃手としての仕事を全うするのに必死で、極限状態で引き起こされる醜悪に、目を背けてきたタイミングは、本当になかったのか。
人間の善性が失われないのは、命の保証がされているからで、それがひとたび脅かされれば、醜悪なものが人間の皮を破って漏れ出してくる。いくらでも見てきた。
それは、自分たちだけではない、リエハラシア兵も同じだ。
こちらをじっと見つめている灰色の眼に、ひんやりとした居心地悪さを感じる。
「だが、それはお前の責任じゃない」
そう言われて、ほっとしている自分がいる。余計、アリスは苛立ちを覚えた。
この苛立ちは、この男へではなく、自分への苛立ちだ。
「俺とお前の抱える感情は、個々で解決すべきで、俺たちが国家を背負う必要はない」
男の主張は、まるで現実逃避だ。
国の名を背負って戦い、殺してきたくせに、それを否定しようとしている。
「そんな暴論で片付くなら、どうしてこんなに苦しい?」
拳銃を握るアリスの手が、わずかに震えていた。そんな自分が許せない。
目の前に、宿敵がいる今こそ、冷静でいなくてはならない。
相手の言動に動揺するなど、あってはならないというのに。
「頭では、この主張を認めているからだ」
あまりに堂々と言い放つ、この男の淡々とした態度が、余計に癪に障る。
「そういう問題じゃない!」
「戦争に絶対悪はない。いかに有利に勝つか、だけだ。
両国の政治家は戦争回避の努力を怠った。幾度もの和平交渉を無駄にした。そして我々は、ただの兵隊ごときには何もできないと諦めた」
アリスが声を張り上げると、男は被せるように、そして倍の量の言葉を浴びせてきた。
男の右手がゆらりと動き、アリスに向かってひらひらと動く。
「結果、我々の故郷はどうなった?」
そう言って、ニヤリと笑う男の口元は、血色が悪い。
意地の悪い、不気味な笑みだ。
「俺の国は吸収されて、跡形もなくなった。俺の国を吸収したお前の国は、欧米各国に遠慮しながらの国家運営だ。
望んだ結果とは遠い場所に、かつての祖国がある。
「俺たちが生んだのは、憎しみと死体の山だけだ」
それは、みな気づいていながら、認めようとしなかった事実。
一つの国になったところで、蒔かれた憎悪の種は枯れやしなかった。
いつか、不穏の芽は育ち、悪意の花が咲き、血が流れる実をつけて、やがてまた憎悪の種になるだろう。
軍人だったアリスだけでなく、市民たちにも、戦争の記憶は刻みつけられている。
そう簡単に、
なのに新しい祖国は、敵だった者たちとの協調を
勝ちたかった。
自分たちが強かったのだと、思わせたかった。
満身創痍の国なのに、余裕があると見せつけたかった。
胸の奥底にある、この怒りや憎悪の根底にあるのは。
差別感情。
アリスは力なく、銃を持った手を下ろす。引き金にかけた指先の力も抜けてしまった。
「そうやってご高説を垂れるのは、さぞかし気分がいいでしょうね」
ずっと追いかけてきた相手に開き直られている。
その間に、自分の薄暗い感情を覗き見てしまったアリスは、腹の底から不愉快な笑みしか出てこない。
「ご清聴ありがとう」
アリスの動揺など知らぬ顔で、男はそう言って右手を窓枠へ戻す。
「ところで」
男は不意に、視線をアリスから窓の外へ向ける。不用心な男の後頭部が目に入り、アリスは再び、銃を持った手を持ち上げようとする。
それに気づいたか、気づいていないのか、窓の外を眺めたまま、男は問いかける。
「俺たちが戦ってきたのは、なぜだ」
アリスが生まれた時には、既に戦争は開始していた。
この男は見たところ、アリスより少し歳下だ。つまり、生まれた時から敵同士だ。
「戦争だからよ。そもそも、リエハラシアが攻撃してきたから」
歴史を遡れば、たしか中世の頃に、発端がある。そこまで遡るのは、歴史に詳しい者だけだと思うが。
何を発端と呼ぶかは人それぞれだ。
領地拡大を狙って対立した住民同士の小競り合いからだ、と言う人もいる。
どちらかの国が、どちらかの都市を襲撃したのが発端だ、と言う人もいる。
「攻撃を受けたクルネキシアは、リエハラシアに何も反撃しなかったのか?」
男が吹っ掛けてきたのは、水掛け論だ。
「攻撃されれば、こちらも反撃する。お互い、それは当然」
アリスはすぐさま言い返す。
男は、顔をアリスの方へ向け直す。銃口ではなく、拳銃を構えたアリスの眼を見た。
「双方とも、何か
お互い様だと言い張ったのはアリスの方が先なのだが、こうやって相手から面と向かって言われると、腹が立つ。
唇を噛んで、灰色の眼の男を睨みつける。
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