13. Karma
1.
湿気の少ないこの島の風は涼しい。
ライオニオの部屋の隣が、アリスの部屋だ。ライオニオの応急処置を終わらせ、部屋に戻ってシャワーを浴び、のんびりとインスタントコーヒーを飲む。
ベッドに寝転がりながら、スマートフォンをチェックし、ヴァンサン・ブラックへメッセージアプリを使って、報告を入れる。
アリスがスマートフォンから窓に視線を遣った時、ちょうど風が吹いて、カーテンがふわっと膨らんだ。
何の違和感もない、風景。
アリスはすぐさま起き上がり、ベッドに置いていた
カーテンはまだ、揺れている。風が収まるまで、緊張感のある静けさが部屋を覆いつくす。
風が収まると、カーテンの中から黒い足が見えた。
「手を上げろ」
アリスは警戒を剝き出しにした声で、アリスはじりじりと窓へ寄っていく。
ここに現れたのが何者か、想像はできている。
「お前と話をしようと思っただけだ」
もう一度風が吹き、煽られたカーテンが、窓枠にいる人物の姿を露わにした。
手を上げろと言われているのに上げていないが、拳銃は握っていない。まるで、手ぶらで来ました、といった風情で、部屋側から窓枠に浅く腰を乗せている。
その人物は、気配が極限まで無に近く、細心の注意を払っていなければ、絶対に気づかない。そんな異質さを持っていた。
灰色の虹彩の上部は瞼で隠れ、白目が多めの瞳。夜の闇より黒い髪は緩くうねっており、うねりのカーブに室内の照明の光が少し反射している。一文字に引き結ばれた血色の悪い唇。
上下黒色の衣装は、創作の世界で見るような死神が纏うローブに見えた。
とはいえこの死神は、大振りな鎌は持っていないが。
アリスは奥歯をギリギリと噛み締める。
部屋に侵入した痕跡がわかるよう、玄関ドアに仕掛けをしておいたが、アリスが部屋へ戻った時に異常はなかった。つまり、仕掛けは容易に突破されていたことになる。
拳銃を握る手が汗ばむ。心拍数が上がる。それと相反して、頭はすっきりしてくる。
相手の間合いに入らなければ、すでに拳銃を握っている自分の方が有利。このまま撃ち抜いた方がいいか。
否、引き金を引く途中で躱されて、間合いへ入られたら近接戦になる。
「その銃を下ろせ。話はそれからだ」
聞こえてきたのは。アリスの母国の言葉。いや、男の祖国の言語だ。二つの国の言語は、ほとんど同じなのだ。
灰色の眼の、梟とも死神と呼ばれてもいた男は、一切動揺せず、アリスに銃を下ろせという。
だが、アリスは頑なに銃口を向け続けている。この男が少しでも動けば、その瞬間に引き金を引く用意をしていた。
「対話は民主主義の基本」
男は飄々としている、ように見える。実際のところ、どう思ってこの態度をしているのか、アリスには量りかねていた。
「こっちの話をロクに聞いてこなかったのは、あんたの国の方だっていうのに」
銃口を向けたまま、引き金にかけた指を離さず、アリスは口を開く。
「今だから聞ける。戦時中では、対話できなかった」
悟りを開いたかのような発言だった。
男の一挙手一投足、声のトーン、仕草の一つも見逃すまいと観察しているが、動揺が見えず、アリスは困惑が強くなる。
戦場ならば、有無を言わさず発砲できただろうに、ここは違う。
しかも、お互いに軍人としての立場を捨てた後だ。
アリスの理性が、引き金を引くのを迷わせている。
「私の父は戦争に行って、いまだに生死不明のまま。母は砲撃の最中に私を産んで、出血多量で死んだ。私の恋人は、地雷を踏んで死んだ」
アリスを奮い立たせてきたのは、怒りと悲しみと、死んでいった愛しい人々の無念だ。
「狙撃部隊に配属されて、私は必死で任務にあたった。なのに、任務が私を擦り減らしていった」
今もなお、自分について回るメンタルの不調の始まりは、そこからだ。
「だから、異動願を出してクィンザクアへ行った」
少しばかりの平穏を求めたアリスの期待を裏切り、配属されたのは、補給基地の名を冠した、敵を
クィンザクア補給基地の実像を、上官から聞かされた時は、落胆を隠せなかった。
それでもクィンザクア補給基地での生活は、充実していた。みな明るく、仲良く共同生活を営んでいた。
「そのクィンザクアで何が起きたと思う?」
脳裏に浮かぶのは、仲間や上官の温かい笑顔と無残な死に様。最高の瞬間と最悪な瞬間が交互に蘇ってくる。
灰色の眼の男は、真剣な表情でこちらを見ているが、何も言わない。言い訳の一つでも言おうものなら容赦なく殺せるのに、とアリスは舌打ちしたくなる。
「何が悲しくて、私は狙撃部隊に舞い戻ったのか」
狙撃部隊へ戻ってから、得てきた勲章は数あれど、どれも自分の心を埋めてくれなかった。
アリスの、壊れそうな心の支えになったもの。
それは十年前、たまたま出くわした砲撃の現場で救った、生意気で気弱な少年の存在だった。
男は小さく息を吐き、深めに息を吸う。何か喋ろうとしている。アリスは鋭い眼で、窓枠に腰掛けている男を見た。
「俺を殺したいのは、重々承知だ」
この声音や表情に、詫びる気持ちは混ざっていない。かといって、正当性を主張しているわけでもない。
この男の感情が読めないから、アリスはずっと警戒し続けている。
「お前には、俺を殺す理由がある」
男の両手は、窓枠を掴んでいる。あえて両手を塞いで、アリスに対して敵意がないアピールをしている。
「俺にも、お前を殺す理由がある」
その一方で、男は不穏な言葉を口にする。アリスの緊張は張り詰めた。
この男の殺意は、どこに隠されているのか。
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