2-2.

           *


 

 青年がトイレを出た途端、不意に何かが上を横切った――否、前から舞い降りてきた。

「は?」

 頭上から降ってきたのは、足だった。

 飛び蹴りにしては高さがあった。

 何が起きたのだろう、と把握するよりも先に、その足に頭を蹴飛ばされ、弾みで床に転がっていた。

 

 まったく把握できない状況ながら、とりあえず一つわかっているのは、

「ヴァンサンごときに寝返ったりして、やっすい忠誠心だね」

 胸ぐらを掴まれ、暴言を吐かれていることだった。


「これが、さんざん世話になったケリーやオーナーへの仕打ちかぁ」

 真っ黒な瞳は底なしの闇だった。その闇の中、小刻みに震えている己の姿が見えた。

 

「そんな顔してないで、何とか言ってくれる?」

 青年の目の前にいるのは、若いアジア人の女。長い黒髪。

 その女に、苛ついた口調で話しかけられ、胸ぐらを起点に揺さぶられている。

 

「恩を仇で返すのは、裏社会こっちでは最大のタブーなんだよ? 簡単に寝返る人間は、真っ先に切り捨てられるって理解してる?」

 女は、怒っていることを顔に出さない代わり、ぎらついた黒い眼で、強い圧力を容赦なくかけてくる。


 何が起きているのか、青年には、まだ理解できていなかった。


 呆然としている青年の胸ぐらを掴んだまま、顔だけ後ろに向けた女は、声を張る。

「そこのあなた、ケリーちゃんへ伝書鳩、お願いできます? 光の速さで」

 このタイミングでトイレの清掃に来たスタッフの男は、突然この状況に出くわしてしまい、青ざめた顔で固まっている。

 

「22時20分開始、目標20階、20階到達不可能な場合、60階。これだけ伝えて」

 突然指名された清掃スタッフの男は、目を泳がせている。

 

 清掃スタッフの男は、助けを求めるように、胸ぐらを掴まれたままの青年を見る。だが、そもそも助けを求めたいのは青年の方だ。

 

 1ミリも動こうとしない清掃スタッフの男に向かって、渕之辺 みちるは、トイレの脇にある非常階段を指差す。

「はい、レッツゴー! ゴー!」

 清掃スタッフの男は、困惑した表情のまま、非常階段へ走り出した。

 それを見届けて、女は胸ぐらを掴んだ青年を冷徹に見下ろした。

 ――が、すぐにまた、背後を振り返った。


 トイレ前の異変を察して、そろりと現れたのは、

「フチノベ様」

 物腰の穏やかな支配人だった。

 この状況を見ても、動揺した素振りもなく、穏やかに話す。

「どのようにすれば、我々は、アシュリー様やフチノベ様のお役に、立てますでしょうか?」

 青年は支配人の言葉を聞いて、舌打ちをする。支配人が自分を助けてくれそうにない、とわかったからだ。


 女はふっと笑った。どちらかと言うと、悪巧みを思いついた時の、強気な笑みに近い。目元は限りなく真剣なのに、口元だけ歪んでいる。

「とりあえず、こいつをどっか、閉じ込めておいてもらっても?」

 青年が、ふざけるな! と叫ぼうとした瞬間、

「かしこまりました。しばらくは大人しくしてもらいましょう」

 支配人が青年より先に、穏やかに返事をした。



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