2-1.
*
この「硝子の塔」は90階以上のフロアがホテルとなっている。
最上階100階はフロアまるまる、スイートルームになっている。
90階がホテルの受付となっていて、そのフロアにはスタッフが30名ほど集まっていた。
彼らが集められた名目は、「ボヤ騒ぎ後の営業再開に備えるため」。
展望フロアの客と、避難ホテルの宿泊客は避難させた後で、安全確認ができ次第、営業再開させるはずだった。
しかし、今日の今日、この島と硝子の塔の権利者になったというスイートルームの客は、自身が承諾するまで再開を認めない、と伝えてきたのだ。
なので今、宿泊客もいないホテルのロビーに、スタッフが残されている。
「まだ帰っちゃだめですかぁ?」
フロアに集められたスタッフの中で、退勤時間を過ぎたらしい20代前半の女が、不満げな声を上げた。
「オーナーからまだ、待機命令が出ているので。残業代はつきますからね」
受付カウンターから返事を返すのは、老年に差し掛かりつつある、落ち着いた物腰の男性だった。
「えぇぇ、でも支配人、夜勤の子だけ残れば良くないですか?」
「出入りを制限したいのだそうで。すみません」
この女性スタッフは、支配人と呼ぶ時、「しはいにーん」と語尾にかけて伸びる。
支配人は、すまなそうに眉を下げた。
「支配人、今日、彼氏とデートする予定だったんですけど……
「言葉遣いはちゃんとしなさい」
「すみませんでした。気を付けます」
相手は接客のプロなので、言葉遣いで一線を超えた発言に対しては、厳しい表情を見せて注意する。女性スタッフは、先ほどまでの自由な態度から一転して、身を縮こまらせた。
言葉遣いを注意された女性スタッフは、気まずい気分を変えたかったのか、隣にいた青年へ話しかける。
「ね、新しいオーナーって何者?」
「すごい金持ち、ってことはわかる」
青年はニヤッと笑った。それを気味悪く思いながら、女性スタッフは接客用の愛想笑いを浮かべた。
「たしかに、スイート泊まれるくらいだもんねぇ」
「それだけじゃない」
青年は財布を取り出すと、女性スタッフに見せつけるように中身を開く。
財布の中には、帯封がついたままの札束。それが無理やり詰め込まれている財布は、膨れ上がっている。
「えっ?」
女性スタッフは突然見せられた財布の中身に、目を丸くする。
「ケリーの情報屋を辞めて、あの新しいオーナーに乗り換えるって言うだけで、こんなにもらえたんだよ」
「うわぁ……」
財布の中の札束を自慢してくる青年の笑みは、ニヤッと笑うよりも進化した、いやらしさすら孕んだ笑みだった。女性スタッフは、半ば反射的に、軽く蔑むような視線を送る。
「何だよ、まだケリーの手下のままでいるつもりなのか?」
想像とは違う反応だったのか、青年は口を尖らせた。
「いやウチ、手下とか関係ないから。これでも、ごく普通の民間人だから」
「ケリーの手下じゃなかったんだ? 俺てっきり」
ウチは見た目が派手だからね、と青年の勘違いをフォローしつつも、女性スタッフはなんとなく、青年との距離を物理的に取っていた。
「え、もしかしなくても旧オーナー派? ここで旧オーナーにつくのは、さすがに馬鹿だよ」
青年は大金を得たことで気が大きくなったのか、女性スタッフが素直に同調するまで話しかけてきそうな勢いだ。
「そうやって分断を煽るのは賛成しないってだけ。ウチからしたら、何の関心もないし」
一方で、女性スタッフは冷静に言葉を返すのみだった。
「今までのオーナーやケリーが、俺たちに何かしてくれたか?」
青年はどうやら、今までの体制には否定的な立場のようだった。
「よくわかんないけど、リゾート地になって、豊かにはなったし?」
女性スタッフはそう言って、自らの両手の爪を見つめた。
このホテルの職務規定では、ネイルアートは禁止されている。しかし、例外的にペールピンクやベージュなどのネイルカラーは許されていた。
女性スタッフのペールピンクのネイルカラーの、人差し指や中指の先端部分が、少しだけ剥がれていた。
「いいか、この島はオーナーが
俺は正直、この島にとっていいこととは思えないんだ。だってやってることは、要するに
青年が説明じみた話を滔々としている間、女性スタッフはネイルカラーの剥がれた箇所を指で撫でていた。
「新しいオーナーって、スイートに泊まってる二人組でしょ?」
青年の話が一区切りついたタイミングで、女性スタッフが尋ねた。青年は、そうだと頷いて、なおも話を続けようとしたが、
「片方の顔が、めちゃくちゃイケてるよね」
サラッと女性スタッフは話を変えた。
「顔が良けりゃ、割と何でも許せちゃうよねー」
悪戯っぽく笑って見せた女性スタッフに、青年はわかりやすく顔を曇らせた。
「ったく、なんもわかってなくて笑える」
自分の熱弁は指先のネイルの剥げにも劣るのか、と憤慨したらしい青年は、わざとらしい溜め息をついた。
「つまんねぇの。俺、ちょっとトイレ行ってくるわ」
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