3.

          *


 


 海沿いのエリアに一軒、敷地面積がとりわけ大きく、白い塀に囲まれた邸宅がある。

 そこは、オーナーの別荘だった。

 普段はケリーが住んでいる。

 言わずもがな、厳重な警備が敷かれ、幾度も強盗などが襲来したものの、侵入できないと言われた物件だった。

 島の住人は、ここを訪れることはない。この島で、オーナーにお伺いを立てる必要があった場合は、ケリーが窓口になっている。そしてほとんどのことは、ケリーだけで解決してしまう。

 この邸宅には、ケリーが呼んだ人間しか入れないとされているが、そもそもケリーは今まで誰一人として、この邸宅に人を迎え入れた試しがない。


 

 その邸宅の、玄関のインターフォンが鳴った。

「あんた、どうしてここに」

 驚きつつもドアを開けると、現れた人物は何も言わずに、部屋に踏み込む。


「ちょ、ちょっと! ねぇ!」

「空気読まずに悪いな」

 低い男の声。発音に抑揚がなく、この謝りの言葉は、口だけだとわかる。

 その人物はケリーに目もくれず、リビングのソファを見つけるなり、どかっと座る。

 用件も言わずに突然、ソファに居座り始めた、灰色の眼の男。

 珍しく、緩い癖のついた黒髪を、大雑把に一つに結んでいる。

 

「空気読めなすぎ! 何なのいきなり!」

 ケリーの声は金切声に近い。そうなるのも致し方ない状態だが。

 

「これでも三十分待ってから来た」

 ソファの背凭れにどっしりと寄りかかる姿は、まるで我が家にいるようだ。あまりに平然としていた。

 

「もう本当に悪趣味なんだけど!」

 自慢の警備を掻い潜って、この男は三十分も前から、邸宅の敷地内にいたのだ。

「アシュリー! なんだっけ、サバなんとかが来た!」

 ケリーは寝室の方向に振り向き、声をかける。中にいる恋人の、間延びした返事が返ってきた。

 

「”サヴァンセ”だ。俺も人の名前覚えない方だが、お前も大概だな」

 名前を適当に呼ばれた男は、呆れ顔で嫌味を捩じ込んでくる。


「何しにきたのよ」

 腰に手を当てたケリーは、招かれざる客を睨みつけた。

 

「あいつが動き回れないから、俺が動くしかない」

 梟はうんざりした顔を隠しもせず、静かに溜め息をつく。


 

 ケリーが声をかけた「アシュリー」がリビングにのっそり現れた。

 それは、四十代後半の女だった。

 褐色の肌に、少し癖のある髪を胸元まで伸ばしている。厚みのある唇を、笑う形に無理矢理歪めていた。

 赤いネイルにゴールドをまぶした、長い爪。

 覇気のない、くたびれた顔で、手近なところにあったのだろうバスタオルを肩に羽織っているだけの姿だった。

 

 視線のやり場に困ったのか、梟は天井を見る。


「あぁ、あんたが、梟……。どうした、いきなり?」

 女は、やさぐれた眼で、梟を頭の天辺から爪先まで、じっくりと眺めた。

 

「せっかくだし、三人で楽しんでみようか?」

 女の態度は、破れかぶれという表現がぴったりだった。

「それは絶対イヤ!」

「当て馬は断る」

 ケリーと梟はほぼ同時に、女からの提案を拒否する言葉を口にしていた。

 

「お前はもう、この島のオーナーじゃないが、それでもオーナーって呼んだ方がいいのか?」

 梟は天井を見つめたまま、オーナーに話しかける。


 この女の別の呼び名は、オーナーだ。

 

 ケリーはパタパタと足音を立てながら部屋を往復し、オーナーの体にバスローブを羽織らせた。

 

「ケリーの言う通り、嫌な男」

 オーナーはバスローブの紐を結びながら、ぼそりと呟いた。

 ソファの前にあるテーブルの上に、置きっぱなしにしてい煙草の箱がある。

 

 それに手を伸ばしたオーナーを、梟は睨みつける。

「煙草はやめてほしい」

 睨んではいないかもしれないが、この男は目つきが鋭いので、睨んでいるようにしか、見えない。

 

「あんたはいつも吸ってるじゃない!」

 ケリーは梟に食ってかかる。

 

「今は異常事態だから吸ってない。だからそっちも、こちらに配慮しろ」

 いきなり人の家に来て、ソファを占領した挙句、配慮まで求める図太さは、尋常でない。

 ケリーは罵詈雑言が出そうになるのを、歯を食いしばって耐える。

 

「本名はアシュリー。アシュリー・エンディコットだったか」

 梟がフルネームを口に出すと、オーナーは煙草の箱を握り締めた。そして、潰れた箱をテーブルに投げ捨てる。

 

「その名前で呼んでいいのは、この子だけ」

 オーナーは、隣に立っていたケリーを腕の中に引き寄せる。


「ありがとう、アシュリー。大好き」

 うっとりとした眼で、ケリーはオーナーの顔を見上げている。その二人のやり取りの間、暇そうに虚空を見つめるだけの梟。

 

「しかし、血は争えないね」

 オーナーは、また梟の全身を見回してから、鼻で笑う。

 

「何が?」

 梟ではなく、ケリーが不思議そうに尋ねる。

 

「ミシェルの母親も、こいつに似たロシア系の顔の男が好きだったから」

 それを聞いた梟は、眉間に皺を寄せ、舌打ちした。

 

「いろんな方向にひどい風評被害だ」

 苛立ちの混じった声で、梟は吐き捨てる。

「恋愛感情と信頼関係をごっちゃにされるのが、一番面倒くさい」


 ケリーはオーナーの胸元にぴったり寄り添いながら、顔だけ梟に向ける。

「ねぇ、あんたの思う、愛と友情の違いって何なの?」


 梟は、自身のシャツの胸ポケットから何かを取り出した。四角い包みの、小さなチョコレート。

 包装を剥ぎ、中身のチョコレートを口に入れて噛んだ。チョコレートを飲み込むまでのわずかな時間に、ケリーからの質問への回答を考えている。

「セックスがあるかないか」

「わぁ、極論言うね」

 ケリーは面食らって、引き攣った笑いを見せる。

 梟は、手に残っていたチョコレートの包装を握り締め、ソファの前のテーブルに投げる。

「結局のところ、そういうことだろう」

 梟が投げたゴミは、オーナーが潰した煙草の箱にぶつかって、床へ転がり落ちて行った。

 

「そんな話はどうでもいい」

 梟はオーナーを見つめる。灰色の眼と、黒い眼の視線が絡み合う。オーナーの腕の中にいるケリーは、オーナーの顔を心配そうに見上げていた。

「ヴァンサンに奪われた島の権利、取り戻したいか?」

 梟がヴァンサンの名前を出した瞬間、オーナーの眼が見開かれた。梟は視線を外さない。

 

「あんたに取り戻せる策があるって? バカにするんじゃない」

 オーナーの声は、少し震えていた。目元が潤んでいる。大丈夫だと、支えるようにケリーはオーナーの腰をしっかりと抱き締める。


「俺はクルネキシアから来たよくわからないのにけられている。あいつは、ヴァンサンに喧嘩を売られているみたいだ」

 続けて、ヴァンサンから恨みを買うような記憶はないのに、と梟はぼやいた。

「だから一度、ヴァンサン向こうと話をしてみてもいいか、と考えてはいる」

 ケリーとオーナーは、思った。

 この男は面と向かって相手と話をしよう、などと本気で思っているはずがない。

 ケリーとオーナーは互いに顔を見合わせるが、男は気にも留めない様子だった。

 

「そのついでに、島の権利を取り戻す交渉もしてみようか? って、お前に持ち掛けに来た」

 そう言う男の顔はいつもの無表情で、やる気のない眼が、オーナーをじっと睨みつけている。

「協力を惜しまないなら、この島を取り返す努力はする。協力しないなら、俺は黙ってここから離れる」

「ミシェルを置いてくつもり⁈」

 勝手に協力を求めておいて、叶わないなら島を出て行く、と言い放った梟に、ケリーが怒声を浴びせる。


「そうなるのも仕方ないな」

「最低! クソ! 人でなし! むっつり!」

「それは言い過ぎだ」

 梟は何を言われても動じなかったが、「むっつり」だけは納得できなかったらしい。それを言われた時だけ言い返した。


「取り返す努力、なんて言われて、協力できると思う? 取り返すって断言してほしいところよ」

 オーナーはケリーの頭を撫でてやりながら、梟を見る。

 品定めし、価値を見極めようとしている、冷たい眼差しだった。

 

「断言はしない。可能性に賭けるか否かであって、この賭けに乗らないなら、話は終わりだ。そのうるさくて面倒くさいケリー恋人とイチャイチャしておけ。生きていれば、いつか傷も癒えるだろう」

 相手が話に乗らないとわかった時点で、梟はさっさと退こうとする。ケリーは、自分を悪しざまに言われて、機嫌が悪そうだ。

 オーナーは唇を噛み、しばしの間沈黙した。その間に、梟はソファから立ち上がり、床に転がったゴミを拾って、テーブルの上に置いた。

 

「梟」

 オーナーが、梟の名を呼ぶ。

「あんたは、何を考えている?」

 目の前にいる男は、口角だけを上げて、笑う。背筋が凍るような、ぞっとする笑みだった。


 渕之辺 みちるの連れで、旧リエハラシアの軍人だった男。おそらく、護衛ボディーガードのような存在。

 本来であればヴァンサン・ブラックのもとにいる渕之辺 みちるを、助けに行くだけでいいはずだ。

 わざわざ島の権利を取り戻そうかと声をかけてくるのは、明確な目的がある。

 

「今恩を売っておけば、今後何かあった時には最大限手を尽くしてもらえる、と計算した。言わば投資」

 梟の目的は、わかりやすいものだった。


狡賢ずるがしこい狐め」

 侮蔑の意味を込めて、オーナーは慣用句として、狐という表現を使った。

 

「狐、ねぇ。一番嫌い生き物の名前だ」

 梟は、どこか懐かしそうに、狐という単語を発した。



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