3.
*
差し出された手を握り返さないのを見て、ヴァンサンは穏やかに笑う。
「実は僕、今日、すごい買い物したんだ」
私に差し出していた手は、やがて両手で万歳するように掲げられた。
「なーんと、この島を買っちゃいました! この
とても嬉しそうに話すヴァンサンは、欲しいおもちゃを手に入れた子供みたいだった。
己の組織の主たる資金源である島を、オーナーが素直に売るはずがない。
ヴァンサン・ブラックはオーナーに対して、
それにヴァンサンも、島を買うには多額の金が必要だったはず。
おそらく、後ろ盾の武器商人が資金提供をした。
その支払いが待っているから、欧米に高値で売れる『神の杖』のデータを欲しがった。
とはいえ、これが本当なら、私の所在がここにある状態で島を買われたことで、この男の監視下に置かれたのも同じ。
この島からこっそり出ていくことは、叶わない。
島が買われたと、素直に教えてくれなかったケリーが憎たらしい。
腹の底から変な笑いが出てきてしまう。
「嫌な金持ちみたいなことするの、イヴァンそっくり! さすが後継者!」
もう、それくらいしか言うことがない。
「わかったわかった、友達になろう。ここから出るには、あなたたちの許可が要るんだからね」
この二人の「ヴァンサン・ブラック」がやろうとしているのは、友達という友好的な関係ではなく、完全な支配だ。
「ジェレミー、ミシェルがやっと友達になってくれるって」
「な? だから、買収の話を先にしろ、って言っただろ?」
目の前の二人は、顔を見合わせながら、微笑みを交わしている。これはもう、微笑みというより、してやったりといった顔に近い。
そんな二人のもとへ、スーツ姿の一人の男が足音を立てないようにそっと駆け寄ってくる。ジェレミーの足元に膝をつき、そのまま耳打ちした。
ジェレミーはその囁きに頷くと、膝をついた男から何かを手渡される。連絡と何かを渡したスーツ姿の男は、音を立てずにこの空間から下がっていく。
ジェレミーは、何かを挟んだ指を私の目の前に出してくる。
「さて、これは何かな?」
切り出してきたのは、ジェレミーではなくヴァンサンだった。
ジェレミーの人差し指と中指に挟まれているのは、白い封筒。封は開けられた形跡がある。
まったく見覚えがなくて、私は首を傾げる以外の反応をしようがない。
「これ、ホテルのスタッフが隠し持ってた」
ヴァンサンのエメラルドブルーの瞳が、私を冷たく見つめている。優しそうな声音と反対に、視線はどこまでも冷たい。
「ケリーも馬鹿だよね。ここのスタッフは全員、僕に寝返ってるっていうのに、立場をわかってない」
長い付き合いのスタッフたちが、ケリーを裏切るのを選ぶほどの金と権力が、今、この男にはある。
ジェレミーは私の反応が薄いのを確認して、封筒から中身を出す。
出てきたのは白い便箋一枚。ジェレミーのダークグリーンの瞳は便箋を舐めるように見つめている。
「何だこれ」
じっと便箋を見つめていたジェレミーが、お手上げといった顔で手元の便箋を渡してきた。
ボールペンで書かれていたのは、Lを模した小さな図形がいくつも並んで、何かの形を作ろうとしたのに諦めたようにも見える、絵。
「あぁ、これは、リエハラシア式暗号文」
これを言うだけで、誰が書いたものか、すぐわかるはず。
「なんて書いてある?」
ジェレミーが一瞬にして殺気立つのが、わかった。
かたや、ヴァンサンは糸目になってにこにこしている。ヴァンサンは、何を思ってその笑顔なのかわかないから、気味が悪い。
「えーと、『おぉ我が友よ、君がいない部屋は静寂に包まれ、私のすすり泣く声だけ響いている』」
便箋を持つ手を窓の方へ向け、空いた手は胸に置く。表情は悲しみに打ちひしがれた顔を作って、芝居がかった口調で読み上げる。なんてつまらない小芝居だろう。
そんな、誰が見ても嘘だとわかる嘘をつくと、ヴァンサンは吹き出し、ジェレミーは大袈裟な溜め息をつく。
「あの顔でそんなん書いてたら、気持ち悪いね」
「ニコニコしながら、結構きついこと言う人だ!」
姿形が整っているヴァンサンに言われてしまうと、何も言い返せないから、茶化すしかない。
「うちの
そう説明しながら、テーブルに置かれたキャンドルに便箋を翳し、火をつけた。
橙色の火が、白い紙を黒い灰に変えていく。
「あなたたちが連れてきたクルネキシアの人に、捕まったんでしょうね」
紙が燃える臭いと、料理の匂いが混ざって、何とも言えない臭気がテーブル一帯を漂った。
燃え滓が、テーブルの上をはらりと舞う。
「もし、護衛を助けに行くなら手を貸すよ」
ジェレミーがさも親切そうに声をかけてくる。発端は「ヴァンサン・ブラック」のせいだと言うのに。
「そりゃ、私の荷物から『神の杖』のデータが出てこなくて、焦ってるもんね?」
「その通り」
私の嫌味は、ジェレミーには通じない。真顔で頷かれただけだ。
ジェレミーはテーブルの下でもぞもぞした後、テーブルの上に薬剤のシートの束を置く。さっきのスーツ姿の男が、封筒と一緒に渡したものだったのだろう。
「よくわからない薬を随分と貯め込んでたみたいで」
テーブルの上にあるのは、私の荷物の中にあった抗うつ薬だ。
手下は、私の荷物の中身や伝達を、全てヴァンサンやジェレミーに伝えているようだった。あまりに手際がいい。
「寝つきが悪いから、手放せないんです」
ソースが惜しみなくかかった豚肉にナイフを入れ、フォークで口に運ぶ。
「母が殺された時の光景が、寝るたびに出てくる。だから、寝たくないんですよ」
母、と呼ぶのは便宜上で、私はその人のことを「優子さん」と呼んでいた。
優子さんは、私の実母の姉だった。
実母が私を殺しかけ、大火傷で死にかけたところを引き取って育ててくれた。
夢の中で何度も何度も、もう数えるのが苦痛なほど、繰り返し、優子さんは死んでいる。
もう何をしても、私は優子さんを助けられない。
「寝るたびに? それはつらそう」
ヴァンサンは、薬剤のシートの束と私を交互に見て、少し引いた顔をしている。
「体力の限界を超えて、倒れた時は例外」
寝た方がいい、と思うと焦るから、開き直って寝ない。
限界が来たら、リミッターが振り切れて、泥のように眠れる。
「安眠のために限界ギリギリまで活動していたい、って気持ちがあるから、薬が貯まる」
別にオーバードーズしたいから残しているわけではない、と理解してもらえたらいい。
「安心して眠れないんだ?」
かわいそう、と言いそうな顔だなと思った瞬間、かわいそう、とぼそりと付け加えられた。
私は思わず、ふふっと声を漏らして笑った。
「安心しようなんて思ってない。
「死体と血の上で稼いだ金は汚いって?」
ジェレミーは鼻で笑う。殺気だった、濃い緑色の眼が、私を刺すように見つめている。
「なら、そんな僕たちの金で食べるディナーの味は、どう?」
ヴァンサンはテーブルに肘をついて、私の前に顔を乗り出してくる。
「最高に美味しいですよ」
皮肉を込めた問いかけに、私は満面の笑みで返した。
皮肉には皮肉を、血には血を。
どうせ私たちは、こういう生き物だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます