2.
*
ダイニングバー「No.7」、ここは島の管理と実務を行うケリーが一人で切り盛りする店。
ケリーはオーナーへの連絡役でもあり、この店はケリーが来店を許可した人間以外は立ち寄ってはならない、という不文律がある。
ドアが開く気配に、ケリーは営業用のスマイルを浮かべ、カウンターキッチンから顔を覗かせた。
だが、ドアを開けた相手の顔を見て、ケリーの顔は曇る。
「なぁんだ、ミシェルの犬か」
「ここでも『犬』扱いからは逃れられないのか」
案内されずとも、一番奥の席に陣取った男は、ぼそりと呟いた。 男が座る席は、奇しくも二時間ほど前、ミシェルが座っていたのと同じ場所だ。
「今、何か言った?」
男の声があまりにぼそぼそとしていたからか、ケリーは聞き直すが、男は何も言わなかった。
男にはサヴァンセ、という名前があるらしいが、ミシェルは「サバチャン」と呼んでいた。
そしてこの男は、相手が誰でも「お前」と呼び掛けてくる。
ケリーは、やる気のない態度でガラスのコップに水を注ぎ、男の前に置く。
「あんたの
男はニヤッと口元を歪ませた。笑顔とも言えない、中途半端な表情だった。
そんな顔をすることもあるのか、とケリーが逆に驚く。ケリーにとって、この男は仏頂面のイメージしかない。
「心配してもらうようなことは、ないんだけどな」
すぐに無表情に戻った男の、コップを持ち上げた手には、何かにぶつけたような痕がいくつもあった。
「むしろ、心配するべきは、お前のオーナーの方だ」
男の手の傷に気を取られていたところに、急にオーナーの名前が出て、ケリーの心拍数は跳ね上がる。
「な、んの話よ」
平常を装うとして、声が上擦って見事に失敗してしまった。
男はそこについては何の反応も示さず、水を一口飲んでから話を切り出した。
「
男は口元だけを吊り上げる笑い方を見せた。眼が据わっていて、作り笑いにしても下手すぎるのではないか、とケリーは思う。
「ヴァンサン・ブラックのやり方は賢い。恐れ入る」
「オーナーからしたら、騙し討ちよ」
まるでヴァンサン・ブラックのやり方を褒めるような言葉に、ケリーはカッとなって声を荒げた。
「そんなことは知ったことじゃない。土地売買の取引不成立を申し立てるのは、俺じゃなくて裁判所だ」
この男が言うことは正論だが、今それを言う場面ではないと、わかっていない。
「ミシェルは今、硝子の塔にいるの。ヴァンサン・ブラックに招かれて」
試しにケリーは、ミシェルの居場所を教えてやる。
この男がどこまで情報を把握しているのか、わからない。
「へぇ。そうか」
意外そうな顔でもするかと思いきや、男は冷静に聞いている。今の状況を、まるで予想できていたかのように。
不意に、男はボトムスのポケットから、皺のついた封筒を取り出した。その白い封筒は、きっちりと糊付けで封がされている。
「硝子の塔に潜り込ませているお前の手下は、まだ使えるな?」
「使える……けど」
硝子の塔も、もとはケリーが管轄している物件だ。働くスタッフの何割かは、ケリーの手となり足となる人材が潜り込んでいる。そのことを、この男は知っている。
「その手下をうまく使って、これを渡しておいてくれ」
そう言って、男はテーブルの上に、白い封筒を置く。誰に渡すかは、わざわざ言わなくてもわかる。
「何これ」
ケリーはテーブルに置かれた封筒の封を雑に破り、便箋を見て難しい顔をした。
「お前は、人のプライバシーを守る気が一切ないんだな」
澱みない流れで、託した封書を開けられるのを見た男は、心底呆れている。
「え、これホントに何?」
便箋を照明の光に透かしたり、表面を擦ったり、ケリーは何とかして中身を読もうとしていた。
「いいから、あいつに渡せ」
男の眉間に深い皺が寄る。
「二人にしかわかんない暗号なの? なんかエロいね」
「クソが。勝手に言ってろ」
便箋を封筒へ入れ直すケリーに、男は悪態をつく。
「ところで」
男は、今度は胸ポケットから何かを取り出した。そしてそれをケリーに投げて渡す。
「お前がこの島で動かせる兵隊は、どれくらいになる?」
ケリーがキャッチしたものは、ミシェルが好んで食べている、日本製のチョコレートだった。ミシェルは、餌付けよろしく、出会う人間にこのチョコレートを配って歩いている。
「兵隊?」
男の質問の意図がわからず、ケリーは首を傾げる。
「お前が命令できて、多少腕に覚えがある人間」
「500いかない、くらい」
500程度、という数字も、実は多めに見積もっているのだが、それは今言わない。元軍人のこの男が考える「腕に覚えがある」レベルは、おそらく高い。それに見合う人材は、そう多くない。
「ねぇ、何するつもり?」
質問があまりにも不穏で、ケリーは少し不安そうに、少し怯えていると表現した方が良さそうな表情になる。
「何も。ありとあらゆる可能性をシミュレーションするための事実を、集めているだけ」
その可能性が、何を言おうとしているのかを知りたいのに、男は何も言わない。
いい加減にしてよ、とケリーは呟く。男に聞かれているのは重々承知だが、聞かされた当人は口元に手を遣って考え込んでいる。
「でも私、近いうちに島を出なきゃいけないかも、って感じ」
そう言うケリーは、持て余した両手を重ねては離して、落ち着かない。眼が宙を見つめている。
男は目を伏せ、大きく一回頷く。
いなくなる可能性を言い含めても、特にリアクションしない男の様子に、ケリーは苛立つ。
「私なんか、どうせいてもいなくてもいいんでしょ!」
「急にヒステリーになるなよ。頷いただけだろ」
男は眉間に皺を寄せ、迷惑そうに言う。
「島の権利が盗られた後も、こうして私がここに残ってるから、オーナーがすごく、焦ってる」
ケリーの茶色い瞳が揺れる。
「じゃあ、素直にオーナーのもとへ」「ここは私の故郷」
男が言葉を言い切る前に、ケリーは被せて喋る。
「故郷を捨てていけるわけ、ないの」
生まれも育ちもこの島で、オーナーのためにこの島を管理してきたケリーにとって、この島を出るという選択は、死に等しい。
「オーナーと故郷を天秤にかけたら、故郷が重いのか」
男の声のトーンは、質問ではなく、感想めいた声音だった。
「どっちも……同じ、重さ」
ケリーは俯いて、床板の継ぎ目を見る。この行為に意味はない。この継ぎ目がどこに繋がっていようと、どうでもいい。
どちらかが重ければ、こんなに躊躇わなくてすんだのに、と思う。
「だから悩んでる」
「俺はその答えを持ってない」
ケリーが苦悩を吐露したところで、男はピシャリと言い放つ。
「正論ばっかだから、あんたと話すのは疲れる」
顔を上げたケリーは、呆れと怒りの混じった表情で男を睨む。
「俺も、感情論で話すお前との会話は疲れる」
男は露骨にうんざりした顔で、テーブルに肘をつく。
「あんたのそういうところ! ホントに嫌い!」
正解がほしいのではない、共感がほしいのだ、とケリーは滔々と語るが、男はスマートフォンに視線を落として、聞いていない。
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