3.
*
日が暮れた暗い部屋。
鍵が壊れた安宿のドアから、室内へ放り込まれた。
左眼の瞼が腫れ上がってしまって、視界が100%の状態じゃない。
とりあえずわかっているのは、この部屋には誰もいなくて、俺をボコボコにした梟が、無表情で胸倉を掴んできているという状況だけ。
額に当たる感触は鋼鉄の
「死にたくない死にたくない!」
俺が懇願しているのに、目の前で拳銃を突き付けてくる梟は一切動じてくれない。
「お前を生かしておけない」
動じるどころか、めちゃくちゃ怒っている。
怒った顔をしているようには見えないのに、目線と空気が、アリスが怒った時と同じだ。
「ねぇお願い! いくらでも喋るから助けて」
ここまで言うと、梟の灰色の眼が、俺のことを冷たく見下してきた。
「ここまで恥を曝しても生きていける根性は、ある意味、素晴らしいな」
恥を曝したくないと意地を張って死ぬんだったら、恥なんていっそ曝した方がいい。
「あんたが知りたいのは、俺の相棒のことだろ!」
俺は体をガタガタと震わせながら、声もブルブルさせながら、必死に声を絞り出した。
「先にお前の素性を話せ」
梟は淡々とそう言って、俺の横っ面を殴る。殴られた拍子に、俺の体は床に吹き飛ばされた。
そこを馬乗りになられて、何度も拳が目の前を往復していった。いつの間にか、拳銃はウェストにしまっていたらしい。
こうして殴られるのは何度目だろうか。いや、途中で数えるのを諦めたんだった。
「名前」
おもむろに立ち上がった梟が、仰向けでぼろ雑巾みたいになっている俺に銃口を向けていた。
「え?」
殴られた痛みが意識の大半を占めていて、梟の言葉が何を意味しているのか、ちゃんと理解できていなかった。
梟の指は拳銃の引き金にかかっている。俺が下手なことを言えば、あっという間に殺される。
こんなに死が間近に思えるのは、10歳の時に経験した、あの砲撃以来かもしれない。
「お前の名前」
梟は、俺へ投げかけた質問に言葉を足して、もう一度尋ねてきた。
梟の手は、俺の血で汚れている。俺を殴った時の衝撃で、いくらかダメージを受けたはずだ。
今、拳銃を握っているのも右手だし、右利きなんだろう。たとえここで死んだとしても、アリスの役には立てそうだ。
「ライオニオ……ライオニオ・アリサンディ=ローダモント」
喋るたびに、口の中に激痛が走る。血の味がする。口の中のいろんな場所が切れて、血が出ている。こんなに殴らなくてもいいじゃないか。
「所属は」
所属を聞かれて、俺は首を横に振る。
「俺、軍人じゃない」
「じゃあ何なんだよ」
梟が苛つくのも、仕方ない気はする。これは、この男が想像していた答えじゃない。
「育ててくれた人が軍関係者なだけ」
仰向けになっている俺の視界に見えるのは、梟が向ける銃口と冷たい灰色の眼、板張りの天井。
アリスと最初に暮らした家も、こんな天井だった。
アリスと暮らし始めて最初の6ヶ月間、ほとんどの時間一緒にいて、生活するための知恵と技術を教え込まれた。
アリスは狙撃部隊のエースだから、家を空けると長い。そういう時に不自由しないように、アリスは気を遣ってくれていたんだ。
「育て親の名前は」
「……アリスティリア・ヤシルド=リングネンツェ」
いざとなると、アリスの名前を出すのが、こんなに躊躇うことだと思わなかった。
梟は俺を見下ろしたまま、数秒黙り込む。
「知らないな」
まさか、アリスを知らないと言われるとは思わなくて、
「うっそ、知らない⁈ マジで?」
俺は驚いて、声のボリュームが跳ね上がる。
急に大声で叫んだからか、梟は迷惑そうに顔を顰めた。
梟は少し屈んで、手にした銃口を俺の目の前へ近づける。
「そいつの所属は」
「陸軍。狙撃部隊だった」
「狙撃部隊か。クィンザグアでやり合った連中には、狙撃部隊の人間はいなかったはずだ」
この安宿の隣は飲み屋だ。ネオンが点灯して、やっとこの部屋に灯りが射す。
ネオンの人工的な光に照らされた梟の顔は、どこか浮かない表情をしている。
「その当時のアリスは、狙撃部隊から異動したばっかで、クィンザグアにいた」
アリスが英雄として活躍した、クィンザクア補給基地
そのクィンザクア補給基地を襲撃した、リエハラシア軍の張本人は、俺の目の前。
冷静に考えると、俺は軍人でもないのに、有名な出来事の生き証人たちと遭遇している。
「今頃になって復讐しにくるとは、お前らも暇だな」
眼が据わっているのに、口角だけを上げる梟の笑い方は、とても不吉なものに見えた。
「今だから、復讐しにきたんだよ」
板張りの天井は、木の節が何かの模様に見えたりする。
俺は激痛の走る口を何とか動かして、梟に言い返す。
「国を追い出されたのか何なのか知らないが、どうせその流れで、八つ当たりしに来たな」
「八つ当たりじゃない」
八つ当たり?
この男は、自分がクルネキシアに対して何をしてきたか、覚えてないのか?
「もちろん、身に覚えはある」
不吉な笑みを浮かべた梟は、悪びれずに言葉を続ける。
「だが、お互い様だ」
平然と言い放つ梟の言葉や態度を見て、怒りで全身に力が入る、気がしただけだった。
さんざん殴られて、蹴られて、俺の体の節々は力を入れるだけで悲鳴が漏れるほど痛む。
「俺はあんたに恨みはないし、どうだっていいんだよ」
勢いよく拳を振り上げたつもりだったのに、緩い動きにしかならない。俺の体は、もう自由に動かなくなっているんだ。怖い。
「むしろ、あんたがアリスを止めてくれるなら、その方がいいんだよ……」
俺は何を言っているんだろう。眼から涙が勝手に流れてくる。
板張りの天井を見つめていたはずが、天井の色がアリスの眼と同じ色だと気づいてしまって、アリスの姿が再生されていた。
木洩れ陽の下、小さかった俺に笑いかけた時の、アリス。
「お前の考えていることが、さっぱりわからない」
梟は眉間に皺を寄せ、困惑しているようにも見えた。
「だってさぁ、復讐なんかしたところで、何が戻ってくるんだよ」
涙は止まらないし、鼻水も出てきた。拭おうにも、腕や手は少し上げただけで軋む。
だから、垂れ流しながら喋った。
俺の親父は、戦争で心を病んでしまった。母親は砲撃で死んだ。戻ってくるなら戦う意味があるのに、何も取り戻せない。
「その通り。その台詞を、アリなんとかにも言ってやれ」
「アリスティリア! 間違えんな!」
アリスが、この男に名前も覚えてもらえず、こんな言い方をされているのが悔しかった。
必死で追いかけてきた人間に、ここまでコケにされるなんて、そんな仕打ちがあっていいのか。
「なぁ、お願い、助けて」
アリスを思い出しながら、涙と鼻水を垂れ流す俺の姿はみっともない。いっそ殺してくれ、と思うほどだ。
だが、梟は引き金を引かない。
何も言わずに、ただ見下ろしてくるだけの、灰色の眼。
梟の視線を浴びるたび、アリスの生き生きしたブラウンの瞳が恋しくなる。
アリスに会いたい。
生きてまた、会いたい。
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