2.
***
ダイニングバー「No.7」の店主兼スタッフであるケリーは、ホールをモップがけして掃除し、各テーブルを拭き上げ、キッチンツールを並べる。
この店をオープンして以来、定休日を除いて、必ず続けてきたルーティンだ。
そのルーティンを掻き乱すように、オープン前の「No.7」のドアを開けたのは、一人の女だった。
真っ黒なストレートのロングヘアを背中まで伸ばし、いつも感情を見せない黒い瞳の、若いアジア人の女。
本名は、
ケリーはその名前を、発音しづらいから、ミシェルと呼ぶ。
ミシェルは今日も、絹糸のような髪をなびかせて、口元には強気な笑みを見せている。
ケリーと眼が合うと、ミシェルは声を出さずに唇だけ動かし、「ごめんね」と気安く謝る。
そして、堂々とした足取りで、ミシェルは奥のテーブルに座った。
「オープン前なんだけど」
言葉と態度に棘を満遍なく混ぜ込んで、ケリーはミシェルの向かい側に座った。
「ちょっと、急ぎの話だからさ」
ミシェルは、不機嫌そうなケリーに全く動じていなかった。
ケリーは返事の代わりに、カトラリーを磨き上げるために持っていたクロスを、テーブルに叩きつける。
「これから、ヴァンサン・ブラックと
そう言いながら、ミシェルはテーブルに両肘をつき、顔の前で指を組む。
「はぁ?」
ケリーは眼を丸くして、いつもより一オクターブ高い声を上げた。
「ヴァンサン・ブラックが言うには、『僕と手を組んで損はさせないよ♪ って、オーナーに伝わておいて』だって」
ミシェルの言葉に、ケリーは眉間に皺を寄せる。
「ヴァンサン・ブラックと直接、連絡取れたの? どうやって?」
「というか、硝子の塔のスイートに泊まってる。情報入ってないの?」
「聞いてない!」
ケリーは、自分が叩きつけたクロスを再び手に取ると、ありとあらゆる罵詈雑言と一緒に、テーブルに叩きつける。
この島を事実上仕切っているのはケリーなのに、ケリーが預かり知らないうちに、重要人物が入り込んでいるのは、プライドを傷つけられたようなものだ。
「落ち着いて。オーナーやケリーに何も言わずに現れたっていうなら、なんか企んでるって白状したのと一緒だよ」
ミシェルは怒りに震えるケリーを宥める。
「聞き出してみるから」
不服そうな顔ながら、ケリーは一瞬、救いを求めるような眼でミシェルを見た。
その視線に、ミシェルは薄く微笑んだ。
「だから、ケリー」
ミシェルの組んだ指先が
「……なに?」
自分の左手を触る掌を、視線を落として見つめた後、ケリーは尋ねた。
「私はケリーに情報をちゃーんと流すから、何かあったら教えて」
ミシェルの黒い瞳は、相手の姿をそのまま映し返す。
「何を教えてほしいの?」
ケリーはミシェルの瞳の中に映る自分の姿を見つめる。
どこかおどおどしているように見えて、これが自分だとは認めたくない、と思った。
「私の
ケリーの
なんてことないお願い。
だが、こうしてミシェルがわざわざ頼みにくるというのは、
「不穏な空気、してるじゃん」
こちらが思わず溜め息をついてしまうほど、良くない事態なのだろう。
溜め息をつくケリーの耳元に、ミシェルはテーブルから身を乗り出し、囁いた。
「不穏にしないためにお願いしてる。オーナーに迷惑かけたくないからね」
オーナーの名前が出て、ケリーは途端にキリッとした顔になる。
ケリーにとってオーナーは、常に行動の指針になる存在だ。
「ヴァンサン・ブラックと話した後、この島は早めに出て行くつもりだよ」
そう囁くと、ミシェルの手はケリーから離れる。
あの
どちらにしても、この島を一歩でも出たら、ケリーの知ったことではない。
席を立とうとするミシェルに、ケリーは鋭い視線を向けた。
「私、そんな簡単に出て行けると思わないけど」
「フラグを立てないでほしい」
ミシェルは苦笑いしながら、店を出て行く。その後ろ姿を、苦々しい表情でケリーは見送った。
重苦しい溜め息をついたケリーが店内の時計を見ると、慌てた様子で腰を上げる。
オープン時間を一分、過ぎていた。
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