2.Ominous
1.
南太平洋、数多ある
中規模の島で、観光地として古くから栄え、島中心部は、ショッピングモールや背の高いビルが立ち並んでいる。
その中で一際高いのは、100階建ての全面ガラス張りのタワーだ。
今年できたばかりの観光スポットで、その名も、「
開発が進む中心部に対し、海沿いは昔ながらの商店や飲食店が残っている。
昼間なら、白い砂浜とエメラルドブルーの海を堪能できる。
そんな海沿いの、少し雑然とした店が立ち並ぶロードサイドに、そのダイニングバーはある。
ピンクとホワイトのストライプの壁紙。
家具やマットはホワイト。テーブルに置かれた一輪挿しの花瓶には、ピンク色の薔薇の造花。
天井には白いシーリングファン。床は白地にピンクのドット模様のカーペット。
窓にかかっているのは、ピンク色のブラインド。
半分だけ開けたブラインド、その窓からは夜の海が薄っすら見える。
夜の暗がりの奥で、寄せては返す動きをする波は、この空間とは別の世界の光景に見えてしまう。
時刻は夜9時。
暖色のライトが照らす店内は、淡く儚げにも見える。
ここは、「ダイニングバー・
ケリーという女性が、雇われ店長をしている。
見た目はハイティーンだが、実際は二十代半ば。
焦茶の瞳に通った鼻筋。アジア系とアメリカ系の両親譲りの顔立ち。
髪は、ゴールドのメッシュが入った
今日のケリーの装いは、フリルがついた裾や袖が印象的な、ギンガムチェックのワンピース。
厚底のスカラップシューズは白、靴下はニーハイ丈のパウダーピンクのソックスを履いている。
店内に客は一人。アジア系の若い女性。二十代くらいの見た目だった。
真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばし、切れ長の涼しい目元をしている。
薄手の白い長袖シャツの下に、黒いタンクトップ。デニム生地のショートパンツを履いていた。
ケリーはたった一人の客が座るテーブルの、空席の椅子を引き、腰掛ける。
ケリーが真向かいに座ったのを見た黒髪の女性は、片方の眉をクイっと上げた。
「あのね、今度ね、うちのオーナーとディナーに行くんだ!」
うっとりしながら、ケリーは赤らめた頬を両手で押さえる。
ケリーがオーナーと呼ぶのは、このダイニングバーをはじめ、「硝子の塔」や数々の事業を手掛けている、この島の重鎮のことだ。
「"あー、あの、バリキャリの有能オーナー"」
アジア系の黒髪の女性は日本語で呟く。
そして、皿の上のフォンダン・オ・ショコラに、左手に持ったフォークを入れる。
「いつも言うそれ、カッコいいって意味でいいの?」
ケリーはそこまで日本語に詳しくないので、話す雰囲気だけで、なんとなく察するしかない。
「うん」
黒髪の女性の相槌は、ケリーの回答を肯定する。
「オーナーが、ミシェルも一緒にディナーはどうって?」
ケリーは、黒髪の女性をミシェルと呼ぶ。
「やめとくぅ!」
ミシェルと呼ばれた女性は、とても気楽に断った。
ムッとした顔のケリーを気にせず、ミシェルはフォークに刺したフォンダン・オ・ショコラを頬張る。満足そうに味わっている顔は、幸せそうだ。
チョコレート、卵、砂糖、小麦粉だけで作るシンプルなケーキ。ゆえに、使用する材料そのものの品質に影響を受けやすい。
このダイニングバーで出されるフォンダン・オ・ショコラは、家庭料理的な味わいで、高級店のそれとは違う、温かみのある味がする。
「あのね、オーナーがね、ミシェルにすごい大事な話があるって」
ケリーはミシェルの前にずいっと身を乗り出し、囁くようなボリュームで言う。
「今は、武器屋じゃなくて、ただの民間人だってば」
ミシェルは、コーヒーカップを手に苦笑いした。
「あんなゴツい元軍人を
ケリーは窓の外に視線を遣る。
同時に、店の外にある木のそばで煙草をふかしていた男性が、こちらを振り向いた。
見た目は三十代半ばくらいだろうか。
うねうねとした癖毛の黒髪を肩まで伸ばし、灰色の眼は鋭く、彫りの深い東欧系の顔立ちは気難しそうな雰囲気を醸し出す。
黒い長袖シャツはくたびれて色あせているし、ブラックデニムも同じような有様だった。
「サバちゃんは護衛じゃないよ」
コーヒーを一口飲んでから、ミシェルは目を伏せて答える。
「ミシェルは、オトコの趣味が悪い」
「オトコでもない。大事な
ミシェルは小さく笑って言う。ケリーは納得いかない様子で、「やっぱり趣味が悪い」と繰り返した。
「あのね、オーナーがね、全然知らない武器商人に取引持ち掛けられてるんだって。で、その武器商人が、今すごい勢力持ってる人らしくて」
ケリーは長いまつ毛に縁どられた眼をゆっくりと瞬きさせながら、ミシェルに囁く。
「今の業界勢力図なんか、興味ないよ」
ミシェルはまた、フォンダン・オ・ショコラにフォークを刺して、口へ運ぶ。
ケリーが必死に水を向けているのに、何の興味ももっていない素振りだった。
「大丈夫、オーナーはアドバイスが欲しいだけ」
ケリーはどうにかして、ミシェルとオーナーを顔合わせしたがっている。
「アドバイス? 何にもないよ。イヴァンが死んで二年も経ってる。後釜狙いどもが、勢力図を新しく書き換えていく時期だよね、としか」
ミシェルが食べているフォンダン・オ・ショコラはあと一口でなくなる。
真っ黒な切れ長の瞳は、じろりとケリーを睨んだ。
イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー。
つい二年前まで、世界に名だたる武器商人として隆盛を誇っていた男の名前だ。全ての戦争は、この男が協力するか否かで戦況が一変するとも言われたほどに。
「イヴァンが死んだ後、市場の奪い合いになってる。だから、これから何年かは、武器商人同士が潰し合いするターンになるってオーナーが言ってたの」
「そうやって潰し合えばいいよ。
「辞めたからって、ミシェルは無責任だよね」
ケリーは呆れた顔で溜め息をつく。
目の前にいるミシェルは、三年ほど前まで武器商人だった。
といっても、イヴァンとは比べ物にならない、細々とした商売ばかりしていた。
大した市場でもない日本で、そこそこ大きいジャパニーズマフィア相手に武器を流しているだけの武器商人。
そんな存在感の薄い武器商人が、どうして名が知られていたのか。
それは、ミシェルの母親が、あのイヴァンの元恋人だったからだ。
イヴァンを意のままに動かせるのはミシェルの母親だけ、と囁かれていた。
だが、三年ほど前にミシェルの母親は死んだ。
ミシェルはそのタイミングで武器商人を、さっぱりと辞めた。
さらに二年前には、イヴァンが突如として死んだ。
イヴァンが死んだ後しばらくして、ミシェルは突然この島に現れ、そのまま居ついている。
その時にはもう、あの黒髪で人相の悪い男性を護衛として連れていた。
「ミシェルは、ヴァンサン・ブラックって知ってる?」
「知らないや。新参?」
会話しながらも、空になったコーヒーカップを覗き込んだケリーは、おかわりはどう? と尋ねた。
ミシェルはカップの上に左手をかざし、もう要らないとアピールする。
「そ。オーナーに取引を持ち掛けてきてるのが、そのヴァンサン・ブラックなの。この一年で現れた、イヴァンの後継に近い人なんだって」
「新参なのに?」
ようやく、ミシェルが話に食いついてきた。
ケリーはミシェルの耳元に顔を寄せ、囁いた。
「古参の武器商人が、あっという間に追い落とされてる」
ケリーの言葉を聞いて、ミシェルはそっと体を揺らし、ケリーから離れる。
ケリーは口元を笑う形にして、ミシェルの反応をじっと見つめていた。
「……知る必要なかったな」
ミシェルは眉間に皺を寄せ、苦々しい表情を浮かべていた。テーブルの上に置かれたペーパーナプキンを一枚手にし、口元を拭う。
「ミシェル」
ケリーはミシェルの頬へ手を伸ばし、キスするような距離まで顔を近づける。ミシェルは動じる様子もなく、ケリーを睨んでいる。
「今カムバックすれば、イヴァンが独占してた市場を取りに行けるよ」
「それは、ケリーか、ケリーのオーナーがやればいい」
ケリーの額が、ミシェルの額にくっつく。
ケリーがつけている、甘めの香水の匂いが、ミシェルの鼻腔をくすぐった。ケリーの手は、頬から耳の後ろへ回っていく。
「オーナーは武器商人じゃないの。もっと大きい役割をやる人なの」
「立派な人だね」
全く心のこもっていない声音で、ミシェルは言う。
冷たくて感情の見えない黒い眼が、目前に迫った焦茶色の眼を威圧していた。
ミシェルに向けるケリーの眼差しは、悪戯っぽく、蠱惑的だった。
湿度の高い距離の縮め方といい、自分をどうアピールすればいいか、よく知っている。
「私とミシェルのコンビで武器商人をやろう、って計画、まだ諦めてないよ」
ケリーが話すと、その吐息が顔にかかる。
「諦めなさい」
ミシェルはケリーの手を掴んで振り払う。そして、ぴしゃりと言い放った。
ケリーの焦茶色の瞳と、真っ黒な瞳が暫し、睨み合う。
数秒睨み合った後、
「ごちそうさま。今日もフォンダン・オ・ショコラ美味しかったよ」
何事もなかったように薄く微笑んで、テーブルの上に十枚近い紙幣を置くと、ミシェルは席を立った。
「あーぁ、かわいくなーい」
店のドアを開けて出て行こうとするミシェルの背中に、ケリーは声をかける。
「気難しいよね、
ミチル。
ミシェルの本当の名前を、ケリーは発音できるし、知っている。
「かわいい子がご希望だったら、別の相手を探した方がいいよ」
振り返らず、ミシェル――否、ミチルは、店を後にする。
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