第5話 マネージャー②
かくして放課後を迎えた私たちは、普段は立ち寄ることのない部室棟の前に足を運んだ。所謂旧校舎を再利用して部室棟と名付けられたこの建屋は、少し黒ずんでいて歴史を感じる。吹奏楽の音出しや演劇部の発音練習、その他多種多様な音が入り乱れたその雰囲気は、まさに物々しいという言葉がよく似合う。
「どうしたの?はるちゃん」
気がつくと、私は前を歩く凪沙さんのジャージの裾を掴んでいた。言外にそのことを指摘されて、私はいつになく俊敏な動きでその手を離した。
「あ、いや私この部屋の雰囲気に慣れないなぁって」
「ふふ、私もよはるちゃん。熱気?なんとなく圧を感じるわよね」
私が掴んで少し皺がついた裾を手を当てる凪沙さんは、穏やかな顔をしていた。そこにはさっきまで孕んでいた張り詰めた感情がなさそうで、私は少し安心した。やっぱり純朴そうに笑っている凪沙さんが一番しっくりくる。
野球部。年季の入った木の板に墨で書かれた標札が目に入った。どうやら部室についたらしい。ガチャ。扉をノックしようか迷っているとゆっくりとドアノブが回り、中から人が出てきた。
「こんにちは。もしかして見学者かしら?」
中から出てきたのは赤い縁のメガネを着けた女性、下履きの色から判断するに恐らく先輩だろう。
「はい。三井ミツル君に誘われて見学に来ました、1年A組の鳴海凪沙です」
オロオロしている私の前に出て丁寧の頭を下げた凪沙さんは、小声で「ほら、はるちゃんも。頑張って!」と私の背中を押してくれた。
「えっと、同じく1年A組の春風遥でしゅ……」
か、噛んでしまった……!なんとか取り繕ろうと、頭を直角90度にガバッと下げた。
「鳴海さんに春風さんね。私は2年の早瀬よ。よろしく。詳しい話は中でしましょう」
スルースキルが高くて助かった……早瀬先輩に促される形で中に入ると、あれだ。率直に言うと汗臭かった。部屋の奥に窓ガラスを避ける形でロッカーが置かれていて、半開きになったロッカーの一つから、中にはグローブやユニフォームなどの備品が詰め込まれていることが分かる。
その後、早瀬先輩から基本的なマネージャー業務を教えられて早速外に出ることになった。どうもミツル君が言った通り、人手不足らしくわからないことは現場で学べ的なスタンスらしい。今日、私たちはあくまで
「思ったとおり、大変そうだね。野球部のマネージャー」
「うん、そうだね。私、うまくできるか不安だよ」
「大丈夫。はるちゃんには私がついているからね」
まさか、その一言に本当に助けられることになるとは。当時の私は知るはずもなく……
「ありがとね!やれるだけ頑張るよ私!」
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「次、これよろしくね」
「は、ぁい……」
「春風さん、ボール持ってきて」
「は……ぃ」
ヤバい!ダメだこれ!!激務すぎる。グラウンドの右から左まで行ったり来たり。それもカゴいっぱいに詰まったボールを抱えてだ。いくら春休みにジムに行って基礎体力をあげたって、もとが普段インドアな私にこの作業量はとても捌ききれない。何より、この胸!前でカゴを抱き抱えようにも無駄に大きな胸が邪魔でうまく運べない。
……つまるところ、早くも戦力外のレッテルを貼られかねない状態だ。マネージャー全体を指揮する早瀬さんのコールに追いつかなくなってきた。季節はまだ初夏に片足突っ込むかという4月下旬だというのに、全身から汗が止まらない。
「はるちゃん、大丈夫?少し日陰で休んでたら?」
そんな私の様子を見かねたのか、私の2倍はある量のボールが入った籠を抱えた凪沙さんが声をかけてくれた。なんでそんな涼しい顔をしていられるんですか……
「う、うん。そうさせてもらいます……」
今持っているジャグを運んで、私は一塁側のベンチ横の木の下に腰を下ろした。あ、風が気持ちいい。グラウンドに目を向けると、ノックを受けるミツル君の姿を見とめた。ミツル君の真剣な顔はいつ見てもカッコいい。強いゴロ球をグローブで華麗に掬い上げ、セカンドベースに送球。私はただ無心で彼の姿を目で追っていた。
ノック練習が終わり、ミツル君たちは3塁側ベンチに引き返した。すると、マネージャーの人たちが選手に近づいてきて、タオルやペットボトルを渡していく。その中に凪沙さんの姿もあった。凪沙さんはミツル君にペットボトルを渡して、タオルで汗を拭ってあげていた。
すごいな、凪沙さんは……こんなすぐにへばってしまい、挙句マネージャーはもういいかなと思ってしまう薄志弱行な私と違って、彼女はしっかりとミツル君を支えられて。私は勝手に彼女をメインヒロイン、自分をサブヒロインなんて呼んでいるけど、今の彼女は、彼の隣に立つのにふさわしいメインヒロインのように見られた。
私はミツル君が好き。だけど、凪沙さんなら譲っても、私の気持ちに蓋をしてもいいと思っている。
そもそも、私は本当に彼のことが好きなのだろうか。そう思うと、胸につっかえるものがある。こう、好きな人に自分以外の異性が近づくと嫉妬心が湧いたりするらしいけど、私にはよく分からない。
昔から人付き合いが盛んじゃなかった私には友愛としての「好き」と、恋愛としての「好き」が分かっていないんじゃないか。凪沙さんとミツル君が2人でいるところを見ると、時々そう考えてしまう。
選手の休憩が終わるタイミングで、私も立ち上がってみんなのいる方に向かった。
「お疲れ様、はるちゃん。これ、飲みかけだけどごめんね」
一目散に駆け寄ってきた凪沙さんに渡されたスポーツ飲料を口に含む。こんなとき、好きな人から渡されたものだったら、間接キス!?とは言って驚くのかな……
「ありがとう凪沙さん」
凪沙さんにペットボトルを返すと、彼女はボトルを両手で持ち、やや下を向いて固まった。よく見ると、彼女の耳の先が気持ち赤くなっている。
「どうしたの、凪沙さん?」
「……なんでもないよ?」
「そう?ええと、次は打撃練習だっけ?」
「う、うん。私たちはまた球運びだね」
うへ〜……
金属バットの甲高い打撃音が響く。次には決まってボールがネットに当たり、回転を殺されながら擦れる音が耳に届く。その音をBGMに、私は黙々とボールを集めて選手交代の合間にボールを補充する。さっきまでより集める量が減ったけど、疲れることに変わりはない。
半ば機械的に作業をこなしているうちにミツル君の出番がやってきた。私は、ボール拾いを放り出して彼の練習姿を見ようとした。
事件が起きたのは、彼の一球目だった。ミツル君は勢いよくバットを振った。しかし、金属音は響かない。代わりに
え――彼の打ったファールボールが私めがけて飛んできた。白い塊が私の方に迫ってくる様子が、私にはまるで時間が止まったかのように緩慢に見えた。足が地面に縫い付けられてしまったのか、私はその場を一歩も動くことができない。私は咄嗟に目を瞑って、腕で顔を覆った。それしかできなかった。
風が吹く。砂をジャリっと踏み締める音がして、次の瞬間、何かがぶつかる音がした。その衝撃が私に来ることはなかった。
「怪我はない、はるちゃん?」
おずおずと目を開けると、鮮やかな赤茶色のベールが私の視界を覆い尽くした。そして、首の動きと連動するようにベールが後ろに流れてゆき、私は夕陽に染まった凪沙さんの横顔に意識を奪われてしまう。ため息が出るほどに長いまつ毛の下に、鋭くも柔らかいという対極に位置する2つの魅力を内包した宝石が私を射止める。
「うん……あ!凪沙さんこそ……大丈夫?」
「私は平気。ほら」
凪沙さんはそう言って、彼女が抱える籠を私に見せてきた。どうも、飛んできたボールをカゴに当てて私を守ってくれたらしい。
心臓がバクバクする。弛緩した足は言うことを聞かず、私はその場に尻餅をついてしまった。
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
気がつくと、私は凪沙さんの腕の中に包まれていた。とても暖かい。胸元に押し付けられた私の顔は、どうしようもなく熱くなってしまう。
私は、宙ぶらりんになっていた両腕を、そっと彼女の背中に回した。すると、凪沙さんは一瞬固まったけど、やがて抱擁する力を強めてくれた。彼女の心音を肌で感じられる。ドキドキしてるのは私だけじゃなかったんだと、何故だかちょっと嬉しくなった。
凪沙さんは私の唯一の親友。だけど、今は彼女と一つになれた気がしてとても心よかった。今まで抱いたことがなかった想い。この気持ちがなんなのか、私にはまだ分からなかった。
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