第3話 プロローグ.3


 ……お父さんはいつも優しく笑っていた。


 思い返すと、ふっと思わず笑ってしまう。

 あれは確か、私が幼稚園の年中くらいだった頃で、

兄の快晴は三才上だから小学生なったばかりだと思う。二人して変な歌を歌って踊るは家中走り回るはで、はちゃめちゃしていた。鼻くその歌。うんこの歌。おしっこもあったか。そんなお年頃の時期だ。

 この歌が始まると決まって事件は起こり、快晴は猪のように走り回り、つられて私は小猪と化し、そして制御不能に陥った兄猪と小猪は激しく激突し、小猪は物凄い勢いで吹っ飛ばされ壁に衝突した後に大きな音と共に号泣する。


 ほんとろくなもんじゃなかった。


 当時できた頭のタンコブは今でもあるような気さえしている。本当に痛かったからよく覚えていた。快晴め……


「あ……」


 この頃からかもしれない。お父さんのご教授がお約束になったのは。私はベッドから身を起こす。

 この日を境に、家の中がテーマパークみたいになると決まって、落ちつけ、とあぐらをかかされていた。

 今思うと、未然に事故を防いでたのかもしれないけど。


ふっ。


 笑いをこらえきれなかった。二人横並びであぐらをかかされてる記憶が思い浮かんだ。


 ◇◇◇


『……よーし。目を閉じてー。吸ってー』

 隣で快晴は、くすくすと笑っている。

『こらー。快晴ふざけるなー』

 私もつられて笑ってしまう。お父さんも半分笑っている。

『二人ともー、深呼吸しろー』

 思い返すと、快晴とはいつも一緒だった。お父さんも。

 お父さんはどこへ行ったの? と、幼い私は問いかける。

 すると、お父さんの声が聞こえた。


 いいぞー その調子その調子

  大きく吸ってー ゆっくりと吐くー


 どうだー? 広がってるだろー?

  なーんにもない 無限が——


 快晴、七海。

 おまえたちは自由だっ……


 ◇◇◇


 ——言葉と共に強い光が迫ってきて、私は目を見開いた。

 そして、渾身こんしんの息を吐き出し、過去を回想し、ベッドの上であぐらをかいてから、ゆっくりと目をつむる。

 そのままお追いかけたお父さんの言葉は、心地が良い。吸って、吐いて、と繰り返す声が優しく響く。

 ここからは完璧な沈黙の中で呼吸のみを探すのだ。

 呼吸を整えて、肺いっぱいに空気を入れ込み、ゆっくりと吐き出していくと、徐々に広い海の底へと沈み、軽い耳鳴りは、寝る前にスマホでよく流すヒーリングミュージックみたいに変化して、柔らかい音に心を委ねると、いつのまにかお尻と布団との感覚もなくなっていて、もはや呼吸の概念もなくなっていく。


 ——きたな。


 ここで再びモヤが登場。今回は淡いピンク色で、小さくなったり大きくなったり、と思いきや突然、眼の奥に吸い寄せられるように飛び込んでくる。

 私は、困ったもんだとあきれた。どうやら、こいつは自分の意志で消したりできるものではないらしい。


 これは、しばらく観察してわかったことだった。


 ——でも、幾分か深く沈むと、身体の感覚さえもなくなっていき、破天荒だったモヤの存在も気にならなくなるから不思議だ。

 個体が溶けていくとでもいうのだろうか。恐怖はない。ふわふわした感じ。沈んできたな、と思うと、いつのまにか今度は泡にでもなったかのように、ぷかぷか浮いて、ここに意識はあるけど、他には意識はない。

 自分……人間、いや個体じゃなくて。もっと分解して別のなにか……細胞から原子というのだろうか。波動が波のようにゆれて、光の粒子へとなっていくような。

 この次元では人間という概念はないのかもしれない。ちょっと気を抜くと一気に別次元へ飛び出して行ってしまいそうだった。

 徐々に意識が遠のいていく。そして思う。


 ああ。


 ひょっとしたら、この先に自由ってやつがあるのかもしれない……

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