5、天使のキスと恋の契約⑶

 ガタガタと窓の外が揺れている。強い風でも吹いているのか、変な音も聞こえてきた。


「チッ、時間切れか」


 バシャッと手から水を出して、王河さんがだんろの火を消す。一瞬にして、部屋は暗くなった。


「リリア!」


 いきおいよく窓が開き、夜宮先輩が飛び込んできた。

 助けに来てくれたんだ。

 お互いに手を伸ばしたけれど、わたしは王河さんの腕に引っぱられて、引き離される。

 まるで人質のように、大きな手で口をふさがれた。


「兄さん、バカな真似はやめて。リリアを離してください」

「ペンダントを返せ。そしたら、これ以上手出しはしない」


 わずかにシルエットが見える明るさの中、夜宮先輩の首から、キラキラしたペンダントがぶら下がっている。

 それを目印に、王河さんがものすごい速さでチェーンをちぎり取った。動いたはずみで、わたしの体はすっぽりと抜ける。


【エメラルドグリーンのペンダントには、天使と悪魔の力が宿っていて、ワルい悪魔たちから守っている】


 取り返さないと。ふりむいた瞬間、王河さんの赤い瞳がわたしを見ていた。


「その……ネックレス……」


 まぶたを大きく開いて、驚いているみたい。

 七年前にもらった赤いネックレス。いまだに、持っていると思わなかったんだろう。


「封印するなら、今がチャンスだぞ。リリア」


 わたしだけに聞こえるような声。

 無防備な状況で、今なら呪文を唱えることができる。ふいをついて、ネックレスを取り返すことも──。

 でも、動けない。わたしには、できない。

 切なそうに向けられた手が、こちらへ届くことはなかった。

 すばやくわたしを抱き上げて、夜宮先輩が空を飛んだから。


「あの人は、もう以前の兄ではない。危険すぎる」


 逃げる窓ごしに、王河さんがこっちを見ていた。追ってくる気配はない。

 先輩の言う通り、わたしたちの知る王河さんではなくなっていた。言葉づかいや雰囲気も荒々しくて、誰かを傷つけてまでネックレスを手に入れようとした。

 ただ、瞳の奥は、変わらない気がするの。

 屋敷へ戻った頃には、すでにあたりは真っ暗。心配した様子で、チグサさんが出迎えてくれた。


 遅いから送っていくと言われたけど、断ったの。今日は、先輩と一緒にいたいって。


「空き部屋がありますから、そこを使ってください」


 チグサさんが案内してくれたのは、小さめだけど可愛らしい小物がたくさんある部屋。

 すぐに気に入って、用意された部屋着に着替え終えると、コンコンとドアがなった。


「はい」

「少しいいかな?」


 入ってきたのは、分厚い本を持った先輩だった。

 ベッドの中心に二人並んで、本をのぞき込む。肩が当たって、ドキドキした。


「僕たちの事情に巻き込んでしまって、リリアには申し訳なく思ってる」


 ううんと首をふって、戻ってからずっと気にしていたことを話した。


「わたしの方こそ、ごめんなさい。わたしのせいで、ネックレスが奪われちゃったから」


 あのとき、一瞬の迷いがあった。

 苦しそうな表情を見て、二人をてんびんにかけたの。夜宮先輩と王河さん、どちらを信じたらいいのか。

 そばで守ってくれていたのは、先輩なのに。


「あれはダミーだよ。リリアを追うとき、チグサがくれたんだ。本物はこっち。おそらく、兄さんも気づいてたはず」


 夜宮先輩の首には、エメラルドグリーンのペンダントが下げられていた。

 よかった。ホッとするけど、王河さんのセリフがよみがえる。


【紅羽が、嘘をついていたとしても、同じことが言えるか?】


 ブルブルと首をふって、そんなことないと言い聞かせる。

 この優しい夜宮先輩が、わたしをだましているなんて、ありえない。


「兄さんは、おだやかでいつも冷静な人だった。誰かを守るためなら、自分は傷ついてもかまわない。ずっと、僕の憧れだった」


 分厚い表紙をさわりながら、先輩がなつかしそうな目をした。

 本をめくる横顔に、ゆっくりとうなずく。

 わたしも同じ。王河さんは、おとぎ話の王子さまみたいで、不思議と心がひかれたの。


「小さいころ、寝る前によく本を読んでもらったんだ。その時間が楽しみでしかたなくて」

「わたしもです。お母さんが童話を読んでくれました」

「そう、僕は兄だった。こんなふうに」


 本のページがキラキラと輝いて、絵が浮かびだす。心地よい先輩の声が、ナレーションのように響きはじめた。


 ──昔むかし、地球上には悪魔と天使が住んでいました。

 幸せを願う天使と、不幸を求める悪魔。

 お互いはしだいに対立し合い、やがて悪魔は地球から追い出されてしまいました。

 悪魔は悪魔だけの世界をつくり、王さまは三人の兵士にあることを命じます。

 天使のいる地球へしのびこみ、一人残さず不幸にしろと。

 悪魔は天使をうらんでいたのです。

 そんなとき、王さまの元へ一人の天使が現れました。


「わたしが王さまと結婚し、悪魔と天使のかけ橋になりましょう。だから、他の天使に手出しはしないでください」


 天使は約束どおりお妃さまとなり、悪魔の世界で暮らしました。

 残された天使たちも地球で幸せにすごし、何年もの月日がたちました。

 王さまとお妃さまは、お互いの王国を守るためにあるものを残します。

 悪魔と天使の力を持つペンダントは、不滅のエメラルドと呼ばれ、多くの笑顔を生むことになるでしょう──


 飛び出していた絵が消えて、夜宮先輩がパタンと本を閉じる。


「これは、悪魔界で有名な物語のひとつだけど、どう思う?」

「不滅のエメラルドって、まさか」

「そう、このペンダントのこと。僕らの世界では、エンジェル・ダークや天使のカケラと呼ばれることもある。王国は平和になったけど、新たな争いを生んだ」


 キラキラ光るエメラルドグリーンを手にとり、先輩は悲しそうに話した。


「兄さんは、ペンダントを守るため命を落とした。氷で作られた結晶へ保存したのは、兄さんの死を受け入れられなかった父なんだ」


 王河さんは、死んでいなかった。

 特殊な氷のおかげで、コールドスリープ……いわゆる冷凍睡眠状態になって、十五歳の姿のまま目覚めたのだろう。

 チグサさんはそう考えたみたいだけど、むずかしいことはよくわからない。

 でも、連れ去られたとき、王河さんが言った話は本当だったんだ。


「生きているなんて、思いもしなかった」


 今日あったことを思い出しているのか、とてもつらそう。

 無理もないよ。せっかくお兄さんと会えたのに、別人みたいになっていたのだから。

 わたしより少し大きな手の上に、手を重ねた。


「なにか、理由かあるんだと思います。王河さんは、変わらず先輩を大切に思っているはずです」


 少し間があいて、目の前が真っ暗になる。

 甘くて優しい香り。やっと、抱きしめられていることに気づいた。


「せんぱいっ……」

「リリア、ありがとう。正式に、恋人になってほしい」


 なんと返事をしたらいいのか。

 頭の中は真っ白だけど、頬は庭のバラみたいに赤くなっていく。


「でもね──」


 耳元でささやかれた言葉で、さらに熱が上がる。ドキドキが止まらなくて、わたしはそっとまぶたを閉じた。

 その日は、同じ部屋で眠りについた。

 手をつないだまま、お互いによりそって。

 物語で読んだ悪魔と天使が、結婚の約束を交わしたときのように。

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