5、天使のキスと恋の契約⑵

 どうしたんだろう?

 夜宮先輩の目線に合わせて、ゆっくりうしろを向く。

 そこには、全身ずぶぬねの人が立っていた。黒髪の毛先が白くて、整った顔。見たことがあるというか、すごく似ている。


「……兄……さん?」


 そう、夜宮先輩に──。


「えっ?」


 ポタポタと髪から水をたらしながら、兄さんと呼ばれた人が近づいてきた。

 目があって、緊張が走る。そんなわけがない。お兄さんは七年前に亡くなったと聞いた。

 それに、目の前にいる人は、わたしたちと同じくらいの男の子だから。


「兄さん、だよね?」


 もう一度、夜宮先輩はつぶやくように話す。

 その人が伏し目がちなまぶたを上げると、するどい視線が現れた。

 記憶の初恋の印象とは、だいぶ違って感じる。

 黙ったまま、地面に落ちている花冠を拾って、わたしを見た。


「リリアは、俺の花嫁だ」


 ──え?

 目つきは悪いけど、まっすぐ見つめてくる瞳は、やっぱり先輩と似ている。

 ほんとうに、あの写真に写っていたお兄さんなの?

 それに今、わたしを花嫁って。


「……生きて……たのか。でも、どうやって、あそこから?」


 動揺しているのは、夜宮先輩も同じ。

 チグサさんも、驚きを隠せないみたい。じょうろを持ったまま、放心としているから。

 ブルブルと震えながら、妖精たちも植物の葉に隠れてしまった。


「何年だろう。俺が眠っている間に、おかしなことになっていたみたいだな」


 身長も見た目も、ほとんどうりふたつである夜宮先輩の前に立ち、その人は目を細めて吐き捨てる。


「返してくれないか。俺が預けた、大切なもの」

「兄さん、その話し方……髪の色も変だ。年とってないし、じゃなくて、どういうことなのか全然」

「悪いな、紅羽。あまり話しているヒマはない」


 まがまがしい翼を大きく広げて、わたしの腰をすくい上げる。


「えっ、ヤダ、怖い! 降ろして!」


 体はいとも簡単に持ち上げられ、空を舞い上がった。


「リリア!」


 追いかけて飛ぼうとする先輩を、チグサさんが止めている。離せと抵抗する姿は、あっという間に小さくなって。


「先輩、助けてください!」


 わたしが叫んだときには、時すでに遅し。

 風を切り、悪魔の翼が嵐のごとく突っ走り、見たこともない場所へと向かっていた。

 最初はじたばた暴れたけど、どうあがいても空の上。すぐに大人しくして、必死に首へしがみつく。落ちたら、生きて帰れない。


 しばらくして、たどり着いたのは、一軒いっけんの古い家。ガラス張りの窓は、真っ黒のカーテンでおおわれている。

 ずいぶん遠くへ来たみたいだけど、ここはどこなんだろう。

 もうすぐ夏なのに、空気が冷たい。

 角の方にうずくまりながら震えていると、バサッと毛布が投げられた。


「寒かったら、これ使いな」


 軽くおじぎをして、くるまる。あったかい。

 だんろのまきに火をつけて、その人は手をこすり合わせながら。


「怖い思いさせて、悪かった」


 寂しそうな目をして、オレンジの炎を見つめている。


「ほんとに、夜宮先輩の……お兄さんなんですか?」


 記憶の中の彼は、とても紳士的で優しいイメージで、あらあらしさとはかけ離れていた。

 それに、亡くなっているはずの人が、どうやって……。悪魔が不老不死ふろうふしなら、話は別だけど。


「俺の名前は、王河おうが。本物の、紅羽くれはの兄だ」


 ほんのり明るさを取り戻した部屋。目が慣れてくると、壁に写真がたくさんあることに気づいた。

 小さな男の子と、中学生くらいの男の子。となりには、白い髪の女の人が笑っている。

 あれって、もしかして……。


「ここは昔、俺たち兄弟が暮らしていた祖母の家なんだ。あの頃のまま、なにも変わってないな」


 なつかしむような声。その横顔には、さっきまでの恐ろしさはない。


「七年前、なにがあったんですか?」


 王河さんは、夜宮先輩を守るために、命を落としたと聞いた。とてもつらそうに話す先輩を、今でもはっきり思い出せる。


「君には関係ないことだ」


 トゲのある口調。また、オオカミみたいな目つきに変わった。

 人を寄り付けないオーラを出して、わたしの前にしゃがみ込む。


「でも、礼を言う。俺は七年、地下の氷に閉じ込められていた。誰のしわざかはわからない。天使の力が……リリアがその呪いを解いてくれた」

「なんのこと、ですか?」


 心当たりがなくて、パチパチとまばたきをする。

 地下の……氷?

 思い出した。永遠の入り口にあった氷の中に、人形のような男の子がいたこと。

 目を閉じて、呼びかけても動かなかった。

 まさか、夜宮先輩のお兄さんだったとは、思いもしなかったけど。わたしが呪いを解くなんて大それたこと、できるわけがない。


「俺とちぎりを交わしてくれ」

「ちぎり?」

「花嫁になる契約だ。紅羽ではなく、俺と」


 ピッと立てた人差し指に、小さな光が現れた。この赤色を知っている。

 夜宮先輩と、恋の契約をしたときに見たものと同じだ。


「約束しただろ。大きくなったら、君をさらいに行くって。忘れたのか?」


 ドクンと心臓の音が跳ねた。

 ずっと憧れていた人が、目の前にいる。花嫁になってほしいと、告白された。

 でも──。わたしは、小さく首を横にふった。


「わ、わたしが今好きなのは……紅羽……先輩なので。王河さんとは、契約できません。ごめんなさい」


 困ったとき、危ないとき。いつも助けに来て、そばにいてくれたのは先輩だった。

 ぼんやりした憧れじゃなくて、好きという感情を初めて教えてくれた人。

 下げた頭を戻したとき、王河さんは背を向けた。


「……紅羽が、嘘をついていたとしても、同じことが言えるか?」

「えっ?」


 ──今、なんて言ったの?

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