コバルトブルーに溺れたい

草壁

コバルトブルーに溺れたい

 わたしの青春はたぶん水平線の向こうに沈んでいった。そう思えば多少は気が楽になるような気がして、白い砂浜に座り込んで海の向こうを見つめた。思い出したくもないけど頭にこびりついているあの人の名前を砂浜に書く。指の先を、細やかな白い砂に押し付けて、抉る。やがて波がやってきて、その名前を消す。だけど忘れることはない。濡れて黒くなった砂を見るのをやめて、また水平線を見つめる。遠くの方まで透けている真っ青な海とぼんやりした雲が立ち上る薄い空の境界は曖昧。このまま向こうに泳いでいけば空に行けるかもしれない。けど、空にたどり着いても実際にはそこが海の底かもしれない。もしくは海の底だと思っていた場所が空の果てかもしれない。だからそんなことは重要なことじゃない。わたしの頬に涙が触れた。優しく淡く触れた。雫が垂れた。周りには楽しげにはしゃぐ人たちがいるのに、恥ずかしいけど涙は止まらない。


「君さ、ひとり?」

「……へ?」


 誰かの手が肩に触れて、声が脳に落ちて、眼球の奥にコルク栓でもされたかのように涙が止まる。こめかみが痛む。


 誰かはわからないけど、女性は、笑顔でわたしの目の前に立っている。わたしは思わず下を向いた。わたしの影が落ちた砂を見た。


「画になるなぁ、JKとこの島の浜辺は」

「誰ですか、お姉さんは」

「誰でもいいんじゃないかな。今の君にとっては」

「よくないです。変態だったら困ります」

「いいね、ガードは固いほうがモエる」


 気が付くと、穏やかな波のようなお姉さんに飲み込まれていた。わたしは自分の顔の惨状も忘れて彼女を見た。つばの広い帽子とサングラスのせいでお姉さんの顔は隠れてた。けど砂浜と同じくらい白くて細い腕が、少し傾いた太陽より眩しくて目を焦がした。しばらく顔が、いや体が動かない。内臓も動きを止めたらしくて、息すらできなかった。脳への酸素供給が止まって、クラクラ。


 ばたんと尻もちをつく。星のかけらみたいに小さい砂が手について、チクチクした。


「脚、白いね」

 はっとなって、座りなおして乱れたスカートを直す。ついでに脚につい

た砂を払う。


「お姉さんは、変態なんですか」

「そうかもしれないなあ。だって、ちょっと君に惚れそうだから」


 訳も分からずパニックを起こして騒ぎ始める心臓を落ち着かせたくて、胸に手を当てる。一定のリズムで伝わる振動のペースが速くなって、不均等になっていく。でもそれを認めたくない気持ちがもっとわたしを焦らせる。もっと、ドキドキしてくる。絶対わたしはそんなにチョロくない。はず。だからこれは単なる動揺でしかない。顔もよくわからない怪しい人に変なこと言われたら、誰だって動揺するに決まってる。


「最近、暗くなるの早くなってきたよね。あっという間に日が沈むよ」

「だから、なんですか」

「危ないから家まで送ってあげるよ」

「結構です。この島には詳しいので。それにお姉さんのほうが危なさそうです」

「ひどいなあ」

 お姉さんは手に持っていたタバコを咥えた。

 先っぽが赤く燃えて、煙がもくもくと立ち上る。

「わたし、タバコ嫌いです」

 お姉さんが煙を吐き出す。

「ほんと?じゃあやめようかな。禁煙するよ、君のために」

「いや……そこまでしなくていいでしょ、今吸わないでよってだけですし」

「キスすることも考えたらさ、やめたほうがいいよね?」

「しませんよ、絶対。だから安心してください」


 この人はいともたやすく自分の世界に私を引きずり込む。すぐ後ろで音を立てて波打つ海のように。


 不思議と嫌な気持ちはなくて、このままどこかに漂流しても構わないかなとか、思ってしまう。


 「ていうか、どうしてわたしなんかに絡んでくるんですか。ナンパですか」

「そうだよ。いや嘘。泣いてたから声をかけた。それだけ」


 さっきみたいな軽妙さのないまっすぐな言葉が、わたしの心のどこかに刺さった。この人のナンパテクだろうか。そんな手には乗らないぞと必死に逃げたけど、執念深く追われて背中からブッスリ刺されたようだ。


 「こんないいところに住んでたら、涙も出るよねぇ」

「……そろそろ独りにさせてくださいよ」


 この人から離れないと溺れてしまいそうだ。だけど足が動かなくて、立ち上がれなかった。


「暗くなってくるし、ドライブしない?」

「やだ」


 拒んでもなお、彼女から目を離せないわたし。そんなわたしを見てお姉さんは優しく微笑んだ。その顔はさっきよりオレンジ色で暖かい。


 大きなサングラスをそっと外して、ブラウスの襟にひっかける。瞳に夕日が反射するわけなんてないけど、もしその瞳を見てしまったら眩しくて目が焼けてしまう気がして、わたしは彼女の唇を見た。紅くて光沢があって妖艶で、息苦しくなった。もう夕方だけどリップグロスは落ちていない。夕焼けに輝いてるのだ。きっといいヤツを使っているのだろう。大人ってずるい。


「タバコ、吸ってくればいいじゃないですか。わたしなんかに構ってないで」

「なんで大人がタバコ吸うかわかる?」

「わかんない」

「寂しいから。何かに依存していたいんだよ」

「へえ」

 その言葉は少し耳が痛い。波にさらわれた名前が脳裏をよぎる。


「でももう要らないかな。君といると寂しくないから」


 わたしはまだ彼女の瞳を見れない。見たら後悔しそうだから、見たくない。見なくても後悔しそうだけど。


「サングラス外したから、怪しくないでしょ?」

「いや、そんなことないし、何が言いたいんですか」

「”わたしなんか”なんて言わないでよ。タバコより君のほうがいいんだよ」

 唇を見るのすら辛くなってきて、顔を逸らした。

「顔、見てよ」


 もにゅっと顔を掴まれる。とんでもない暴挙に抵抗したいけど、体は動かない。


 瞼が糸に引っ張られるみたいに開いて、お姉さんと目が合う。やっぱりそれは太陽で、わたしの目はすぐにダメになる。


 薄い瞼と切れ長な目尻。瞳は、大きくて深い湖みたいに黒くて、『それどこのカラコンですか』なんて愚問でごまかすことを許さない艶めかしさと力強さがあった。


「帰りたくないなあ」

「もう暗くなるし、危ないですよ」

「家まで送る」

「もう……」


 適切な続きの言葉が見当たらなくて、適当に五十音で当てはめる。


「……うん」


 お姉さんの車は新車の匂いがした。タバコの匂いがすると思ってたから意外だった。


「あ、これレンタカーだよ。今日中に返さなきゃだよ~。君を乗せていいかわかんないけど、まいいや」


 心を見透かされたかのような台詞に驚かされた。

「それにしても綺麗だねえ、この島。あっ、ほら見てよあの橋……って君、ここに住んでるのか」


 右には、この島と本土を繋ぐ大きな橋。そこに大きな太陽が重なった。

 そっか、綺麗なんだ。わたしの全部が沈んだあの水平線も、コバルトブルーも。


「涙、引っ込んだでしょ」

「まあ、少しは」


 嘘を吐いた。目の奥が熱くて、喉の奥から嗚咽が漏れそうになる。必死で堪える。


「で、家どこらへん?」

「家じゃなくていいです。このまままっすぐ進んで」

「え?え?」

「お願いだから」

「わかった」


 たどり着いたのは誰もいない海岸。朝にはここから日が昇る、わたしの一番好きな場所。


 この人と過ごす最後の時間は、日が沈むあの海岸より、こっちの方がいい。


「名前教えて」

「え?」

「お姉さんの名前を教えてよ」

「……」


 わたしの体はお姉さんに包まれた。それで、もうどうでもよくなって、思い切り抱きしめた。意外と骨っぽくて固い。それに少しタバコ臭い。


「好きだよ、お姉さん」

「……いいの?初めましての不審者だよ」

「何でもいい。好きって言ってよ」

「うん。好きだよ」

 

 さざ波の音をいつまでも聴いていたかった。お姉さんの声をずっと聴いていたかった。

 「わの7312、だったっけ……」

 覚えても意味のない数字と名前を砂浜に書いた。きっと波にさらわれる。

 空のオレンジ色が、海の青を染めた。

 

 

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