005

 005



 俺がこの時間に来てから、既に二年が経っていた。



 クリスマス、正月、バレンタイン。それから、体育祭に修学旅行。すべてのイベントを俺は春川と共に過ごし、そうやって並んで生きている間に、彼女は俺の知らない魅力を身に着けていた。



 そう感じるくらい、心の余裕というのは大切なモノなのだ。



 俺の記憶の中と同じように、今回の春川もクラス委員長の仕事を精一杯頑張っているワケだが。思うに、彼女は無理矢理にルールやこだわりを押し付けるやり方を選ばず、拙いながらも平和的に解決する方法を模索している。



「今日のホームルームでは、小学生向けの学校案内のサポートを募集します。因みに、この活動は内申書の加点項目となりますので受験がちょっぴり有利になりますよ」



 俺と密接に関わることがなければ、間違いなく目的以外の理由で参加する生徒を嫌ったハズだ。



 実際、以前の彼女は「みんなが知らないフリをしていると帰れません」的な、ちょっと聞くに堪えない文句とくじ引きで選ぶという強行策を選んでいたし、そのせいで「お前がやりゃいいじゃん」という痛烈なカウンターに言葉を失っている姿を何度も見てきた。



 搦め手、という言い方は真っ直ぐから離れているようにも聞こえるが。個人的に、こういうやり方は『頭がいい』と呼ぶに相応しいと思う。何より、なるべく自分にストレスのかからない道を選び、且つ正義を掲げたまま生きようとしているのだから、もはやそのお人好しぶりには脱帽せざるを得まい。



「それでは、手を挙げてくださった五名と私、そして副委員長のサエキ君で小学生のサポートをします。私からは以上です」



 因みに、俺は参加表明を一切していない。まぁ、最初から断るつもりなんてサラサラないのでノーカウントにしておこう。



「もう二年も経っちゃうんだね」



 放課後。



 今日、図書室にいるのは俺と春川だけだった。三年の先輩は引退し、後輩たちも用事で来られないらしい。俺は、適当にページを捲っていた文庫本から目を逸らし、ボンヤリと空を見る彼女に目を向けた。



「早かったね」

「うん。なんか、ずっと楽しかったからあっという間だったよ」



 彼女が何を考えているのか、流石に察しがついた。



 即ち、果たしてサエキとは何者なのか。



 二年に上がった辺りから、春川はしきりに俺を見つめるようになった。それは、きっと無意識に観察しているからなのだと思う。そして、俺も覚えていない小学生の頃の俺と今の俺に、中途半端な共通点が存在しているからなのだとも思う。



 だから、ハッキリ別人とは言えない。しかし、決して同一人物だとも思えない。そんな、まるで物の怪に化かされたかのような強烈な感覚が、延々と彼女の意識を苛んでいるのだろう。



 なぜ、そう思うか。



 そんな漠然とした問題の答えを、俺はとっくに持ち合わせているのだった。



「最近、よく考えるんだ。サエキ君がいなかったら、今頃どうなってたのかなぁって」



 尚も、空を見続ける春川。今は黙って聞いていて欲しい。そんな無音の声が、彼女の仕草から伝わってくるようだ。



「私、凄く不器用だからさ。きっと、先生に言われたことをクラスメートに強要するステレオタイプな委員長になってたんだと思う。でも、結局言われたことをこなせなくて、自分でやるしかなくなっちゃって。気が付いたら暗くなってる細道を、私は一人ぼっちで泣きながら帰るの」



 ……思わず指を離してしまった文庫本のページが、パラパラと舞い戻ってパタリと表紙を閉じる。



「そういう夢、時々見るんだ。嫌われるのが辛くて、誰も助けてくれなくて、なのに他のやり方が分からなくて。頑張れば頑張るほどイジメられて、からかわれて、次第に自分の無力を思い知って。一体何が正しかったのか、本当は何をしたかったのかも分からなくなって――」



 その時、春川がどこかへ消えてしまうんじゃないかって衝動に駆られ、どうしても黙って座っていられずにテーブルへ置かれた彼女の腕を掴む。



「最後には、空を飛んで死んじゃう。その瞬間に、いつも目が覚めるの」



 ただの夢の話なのに、それを聞いて一筋ばかりの涙を流した俺を見て、春川は何を思っただろう。



「……ごめん、春川」

「ふふ、なんでサエキ君が謝るの? 幾ら悲しい夢の話だからって、泣いたりするなんて全然あなたらしくないよ」



 俺には、耐えられなかった。



 本来、人生をやり直す資格があるのは春川だ。それなのに、なぜ世界は俺のように社会の役に立つ気もない怠け者を選んだのだろう。



 そんな、刃にも似た鋭い疑問は、春川の言葉によって掻き消されていった。



「それで、思ったんだ。ひょっとして、サエキ君は私の未来を知っていて、そうならないために助けに来てくれた王子様なんじゃないかって」

「俺が……?」

「え、えへへ。変だよね、本当に。そんなこと、絶対にあるハズないのに」



 ……そうか。



「でも、サエキ君って本当にカッコいいから、あの頃に憧れていた王子様にそっくりだから。ついつい、そんな妄想をしちゃうの。……あぁ、小説を書くのが楽しくて、現実にも想像を持ち込むようになっちゃった。私って、ちょっと痛い女の子だよね。……んふふ」



 だから、俺に人生をやり直す機会が与えられたのか。



「ねぇ、サエキ君」



 春川は、俺の手を握り返す。



「私、サエキ君のことが好き」



 俺の視界は、やはり灰色だ。



「……嬉しいよ、春川」



 純粋で真剣で真っ直ぐな表情を、俺は見ていられなかった。目を伏せる姿に、彼女は何かを察したのだろう。



 好き。



 その言葉に続く願いを、決して口にはしなかった。



「変なこと言って、ごめんね」



 好きだった。俺だって、本当に大好きだった。



 後年、何度も夢に見るくらい憧れていた。来るハズもないのに、いつか再び会える日を心待ちにしていた。それだけが真実であり、だから俺は今度こそ素直に居続けた。この時間に再生した俺が、彼女の過去を知らずとも尽くしたいと願ったのは俺の気持ちに嘘がない証拠なのだ。



「……いや、いいんだ。本当に嬉しかったよ」



 それでも、彼女は紛れもない中学生の女の子だ。あの頃の俺が憧れた、あの頃の彼女だ。



 幾つもの傷を負って、精神を保つのに必死こいて、汚い手を選んでその場を凌いで、そうやって俺は人生を歩んできた。だから、そんなふうに生きてきた今の俺にとって、彼女はあまりにも幼過ぎたのだ。



 今、ようやく俺の心から失われたモノが分かった。



 俺は、やはり王子様ではないのだ。



「もう少し、一緒にいてくれる?」

「もちろん、いつまででも付き合うよ」



 春川は、俺の手を離さなかった。ずっと握って、握ったまま日が沈んでいく空を眺めている。オレンジ色に染まった瞳からは、キラキラと光る感情が静かに流れていく。



 ……このまま黙っていれば、俺は後悔する。



 俺は、宙ぶらりんな彼女を今のまま守り続ければ、今日の出来事もいつか笑って話し合える思い出になると思い込みたいだけなのだ。しかし、結局、今回も春川は欲しがったモノを手に入れることが出来ていない。傷つき方が変わっただけで、彼女は少しだって救われていないのだ。



 なぜ、正義が報われなかった死ぬほどの苦しみより、恋が叶わなかった悲しみの方が楽だと言い切れる?



 そう思った時、俺はようやくこの世界と向き合う覚悟を決められた。



「信じてもらえないと思うけど、俺は未来から来たんだ」



 春川は、涙を流したまま俺の顔を見る。



「俺、ズルをしてた。汚いやり方で尽くしたんだ。キミがどんな困難に飲み込まれるのかも知っていたし、一人で過ごせばどうなるのかも分かってた。だから、問題に直面するたび、その都度キミが一番欲しがっている結果を選んだ。このままでいれば、必ずキミは恋に落ちるだろうと分かっていながら、俺が応えられないことも分かっていながら、それでも前の人生よりは幸せだろうと思い込んで側に立ち続けたんだ」



 こんな時でも、お前は真面目なんだな。



「ごめん」



 ゆっくりと手を離す。あどけない表情の彼女は、少しだって笑ったりせず静かに口を開いた。



「どうして、私に尽くしてくれたの?」

「一度目にこの時代を生きた俺は、心から春川に憧れていたから」

「一人ぼっちの私は、どうなっちゃうの?」

「知らない。キミは、二年の途中で学校に来なくなった。もしかすると、夢はその顛末だったのかもしれない」

「だから、『学校に通ってくれるだけで嬉しい』だったんだね」



 言うと、春川は席を立って俺の隣に立ち、少しだけ伸びた背中を曲げて俺の頭を胸に抱いた。



「ありがとう」

「……信じるのか?」

「信じないワケにはいかないよ。だって、本当にある日突然、サエキ君は大人になったんだもん。先生や不良の人たちをまったく怖がらない理由もよく分かった。確かに、全然大したことじゃないって知ってれば大丈夫だもんね」

「なぁ、春川。キミは――」

「大丈夫。私、もう死なないよ」



 更に、頭を抱く力を強くする。



「死ねないよ。だって、サエキ君には幾らでも幸せになる方法があったハズなのに。学校に来なければ呆れるくらいのお金を稼ぐ方法だってあったのに。全部やらないで、私のために生きてくれたんだもん。そんなに私を大切に思ってくれた人がいたんだって知ったら、どれだけ苦しくなっても死ねない」



 相変わらず、彼女の心臓の音は大きい。大胆なことをして、俺を慰めようとして。内心、嫌われるんじゃないかってドキドキしながら、一生懸命に俺を信じていると伝えてくれた。



「私、頑張るよ。きっと、大人のサエキ君に追いつくから。あなたが私のこと、一人の女としてみてくれるまでたくさん努力するから」



 そして、体を離す。見上げた春川優子は、確かに俺が憧れた日と同じ強い表情をしていた。



「だから、待ってて」



 ……。



 帰り道。



 俺は、俺の手を引いて一歩前を歩く春川を、ただ黙って見ていた。急いで歩く姿が、妙に愛おしくて不思議な感覚だ。



 果たして、これは幼い彼女を見守る俺の感情なのか。それとも、本当に時間を無視して追いついてくるんじゃないかって期待なのか。その辺りのことは、自分でもよく分からない。



 重要なのは、再び彼女に憧れたということだ。



 きっと、彼女は俺のアイドルなのだ。前を向いて、精一杯に努力して、いつだってキラキラと輝いている。だから、いい歳こいたおっさんの俺が、彼女の行く末を最後まで見ていたいと思ってしまったのだろう。



 きっと、これがバラ色の正体だ。



 確かに、まだまだ視界は灰色で、何も見たって新鮮さを覚えられず、やたらと穿った見方をしてしまう。俺はずっと、お袋の料理という優しい思い出に縋って、懐かしむことでしか二度目の人生を歩めないでいたのだ。



 けれど、春川は違う。



 彼女は、彼女だけは、俺がやり直したことを知っている。これからは、彼女だけが俺の知らない行動を見せてくれる。そんな、結局のところ、どちらが救われているのか分からない奇妙な関係が始まるという希望が、俺の胸の中に渦巻いていた。



「……っ!! 春川ッ!!」



 瞬間、俺は繋いでいた手を振り回し春川を突き飛ばす。遠心力で弾かれた彼女と目が合い、そこへ猛スピードの自家用車が突っ込んでくる。体がグシャリとひしゃげたのが分かった。ブッ刺された時と同じだ。すべての感覚が研ぎ澄まされて、時間の流れがスローモーションに見える。



 ……そうか。



 今日が、春川の命日だったのか。



「サエキ……君……?」



 これは、当然の結末だ。



 毎朝見たことのあるニュースが流れ、株価はまったく同じ曲線を描き、競馬の結果もすべてが記憶にあるモノだった。だから、俺はこの世界を支配出来ると確信していたし、そのお陰で春川を危機から救い出すことが出来ていた。



「サエキ君!? サエキ君!!」



 ならば、どんな道筋を辿っても、本来は春川を救い出すことなど出来なかった。彼女がどれだけ幸せになろうとも、別の形で彼女に絶望をもたらせることは明らかだったのだ。



「いやああああああっっ!!」



 では、なぜ彼女が死を回避することが出来たか。それがバタフライ・エフェクトの影響だ。未来で殺される俺が、過去を変えたことによって犯人の男の行動に何らかの影響を及ぼして今日にまで因果を早め、今日起きたハズの彼女の死を上塗りしたのだ。



 なぜなら、本来の俺は今頃家でボンヤリと小説を読み、何もない怠惰な日々を送るだけのダメ学生だった。そんな人間が二年近くも必死で女の子に尽くしてみれば、ここまで未来がズレ込んだってそうおかしな話ではないだろうさ。



「サエキ君……。お願い……だから……っ」



 あぁ、バラ色だ。



 これが、俺の世界のバラの色なのだ。真っ黒な髪に、白くて幼い赤さの残った肌の、何物にも汚されることのない綺麗なバラ。網膜にかかった血液が、彼女の涙で滲んでボンヤリと輝かせるキラキラとしたバラだ。



「……綺麗、だ」



 ふと、春川の声が消えた。もう、あの心臓の音も聞こえない。俺は今から死ぬのだろう。まさか、こんなにも充実した人生を歩けるだなんて、本当に夢にも思っていなかった。



 ……あぁ。



 この結末が彼女の運命を変えた代償ならば、すべて喜んで受け入れよう。



 最後に、大人へ追いついた春川を見られてよかったと、俺は心から思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る