004
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文化祭も滞りなく終了し、季節はあっという間に冬となっていた。
未知こそが相対性理論の支配者であるのなら、俺の感覚では疾風のように過ぎていくこの時間の早さにも納得だ。勉強にも慣れて、調べる術を知って、だから勝手に興味のある先々を調べてしまう。
もちろん、そんなことをしていれば学校の授業も退屈でしかない。今の俺の楽しみと言えば、春川の小説を読むことと、もう二度と食べることの出来ないと思っていたお袋のご飯を食べることだけだった。
「うまいッ!!!!」
「毎日毎日、本っ当にうるさいわねぇ」
お袋は、「やれやれ」といった様子で呆れながら卵焼きをつまんだ。最初の頃は思わず涙してまともに食えなかったモノだが、今となっては一口一口噛み締めて味わうことが出来ている。
それにしても、中学生の胃袋って本当に底無しだ。「このくらいかな?」と思ってよそった白米の、大抵は三倍近くの量を食べてもちっとも満腹にならないのだから。
「ママ様、おかわりをくださいな」
「自分でやりな」
そんなワケで、俺は朝ご飯を済ませ食器を洗って掃除まで片付けると、昼まで実に懐かしい(リアルタイムだが)ドラマをソファにてお袋と眺め、それから私服に着替えると「遅くなるかも」と告げてそそくさと街のファミレスへ向かった。
今日は、春川と約束がある。
抱き着かれて以来、あまり近づかない方がいいと思っていたのだが。それで役割を放棄すれば、また彼女が他人のために働き詰めて自分のやりたいことを全う出来ない可能性があるという懸念が常に付きまとう現状。
だから、離れるに離れられず、なんの進展もない宙ぶらりんな関係を続けてしまっているのだ。
「こんにちは、サエキ君」
彼女は、律儀にも中へ入らず店内に繋がる階段の下で待っていた。いつだったか、町中ですれ違った時と同じブラウスとスカート。見ようによってはカッチリしているが、正義感よりも幸せが満ちた彼女の笑顔によく映える清純な装いという印象が強かった。
「こんにちは、春川。なんか、肌がいつもより白くないか?」
「えへへ。実は、昨日は上手に眠れなくて」
「また小説書いてたの?」
「……お昼ご飯、食べた?」
どうやら、出掛けるのが楽しみだったらしい。俺が手助けに入ったからか、ガミガミ言わずに生活出来ている春川は、年相応に可愛らしい普通の女子中学生に見える。
まぁ、ずっと気を張って眉間にシワを寄せて、嫌われ役に徹するよりはこちらの方が精神衛生上いいだろう。嘗て惚れた女の子が健康的に生きていられるというのは、俺的にも実に喜ばしい話だしな。
「食べてないよ、春川と食べようと思ってたから」
「ふふ。じゃあ、食べながら予定を決めましょう。誘ったはいいけど、実は何も決めていないのです」
今日呼び出されたのは、新しく書いている長編小説を読んで欲しいとの達しを叶えるためだった。個人的に言えば、完成していない作品を読んだって何も感想なんて出てこないのだが――。
「そうか、じゃあ行こうか」
恐らく、よく出来たと思ったシーンが生まれたのだろう。完成まで我慢出来ず、早く読んで感想を聞かせて欲しいという彼女の気持ちが手に取るように分かって、俺はソワソワとせっかちな姿を妙に愛おしく思った。
まぁ、俺の歳で鈍感な語り部をやったって仕方あるまいだろうさ。
「何食べるの?」
「ハンバーグセットかな、春川は?」
「じゃあ、私も同じのにする」
サラダバーとスープバー、ドリンクバーもついてる上にご飯は大盛り無料でワンコイン。学生時代はあまり外食した記憶が無かったが、こんな価格で満腹になれるというのだから驚きだ(しかも無限に野菜が摂れる)。
俺は、先に飲み物を運んでからサラダバーに行き、たっぷりのレタスとオクラとトマトを置くと、ワカメを振りかけてから唐辛子ドレッシングをまぶしテーブルに戻る。ちんまりとした盛り付けの春川はケラケラと笑ってスープを飲み、もう一度俺の皿に見てからケラケラと笑った。
「あははっ! サエキ君、そんなに野菜好きだったの!?」
「お代わりもしますがなにか?」
「へ、へ、変なの! そんなに野菜ばっかり食べる人見たことないよ〜!」
十数年後、信じられないくらい物価が高騰して、満足に野菜を食べられなくなる日が来るということを、きっとこの時代の人間は少しだって想像していなかっただろう。
俺は、シンナリした辛口の野菜を頬張り、楽しそうに笑う春川を眺めていた。盛り付けが落ち着いてようやく笑いが収まったようだが、もう一回だけ笑顔が見たくて同じように山盛りの野菜を持ち帰ると、春川は再びケラケラと笑って楽しそうにしてくれた。
それにしても、中学生って野菜を見るだけで笑えるのか。つくづく不思議な生き物だよ。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
食後に腹を落ち着かせる暇もなく、俺は彼女が手渡したノートパソコンのディスプレイを眺めた。20キロバイト程度の下書きファイルには、相応の文字数が書き連ねられている。
どうやら、丁度第一章を書き終えたところらしい。俺はミルクの混ざった苦いブラウンの液体を啜りながら、実に甘くてメルヘンチックな小説を目で追っていった。
「どうかな」
「うん、面白いよ。続きが気になる」
「ほんと!?」
春川は、まるでカートゥーンアニメのキャラクターのように大袈裟に喜んだ。
「本当だよ。きっと、春川が何年も温めてきたアイデアなんだろうなって熱意が伝わってくる。世界観が練られてるから、キャラクターの行動にも興味が湧くよ」
「ふふ。読書家のサエキ君にそう言ってもらえると、ついつい嬉しくなってしまいますよ」
誤魔化すようにミルクティーを飲んでから、落ちそうになったほっぺたに手を当ててニヘラと表情を緩ませる彼女。恐らく、ミルクティーを甘く感じたのは砂糖のせいだけではないだろう。
「この後の展開は?」
「ちゃんと考えてあります、ブイっ!」
何がブイなんだ、と考えるも束の間。そういえば、この時代の何かのアニメに、そういう不思議系のキャラクターがいたなぁと思った。俺が知らないだけで、春川って結構サブカルチャーに興味のあるオタクっ娘だったようだ。
……いや、違うな。
クラスの為に尽くす時間が減って、逆に読みたい作品がたくさん増えて。だから、彼女はオタクちゃんになったのだ。
「なら、楽しみにしておくよ。俺がラブコメを読む機会なんて、春川に提供してもらわなければありえないから新鮮だ」
「だって、サエキ君の読んでる本って凄く難しいんだもん。トマスとかエルとか。『それ誰?』って感じのミステリばっかりで、部長さんもついに話が合わなくなっちゃってるし。あなたには、全然ロマンスが足りてないんだからねっ」
「反省するよ」
思わず、怒ってしまった自責の念のせいだろうか。
店を出てバスを待っていると、春川は俺の手をぎこちなく握って寄りかかった。ずり落ちそうになったトートバッグを肩に掛け直し、彼女の長い髪を見る。周囲には自動車や人通りの喧騒が響いているにも関わらず、春川の心臓の音がドキドキと届いたような気がした。
「サエキ君、本屋さんに行ったら何見るの?」
「たまには、春川の好きそうなラブコメでも買ってみようかと思ってる」
「嘘ばっかり。そんなこと言って、結局最後には自分の好みを追って行くんだから」
「そんなことないよ」
「あるよ。だって、図書室でオススメしても、何ページか立ち読みして最後には難しそうな本を選んでるから。大人っぽ過ぎて、若い感性に感情移入出来ないのがあなたの弱点だよ」
「そ、そうかな。俺も一応、リアルタイムな中学生なんだけど」
それこそ嘘ばかりだ。この俺が、大人である上に人としての大切な何かを失った俺が、恋愛に感情移入など出来るハズがない。
「そうだよ。凄く優しくて頼りになるのに、そういうところは小学生の頃から変わってない。あの頃は、虫とか動物の図鑑だったけどね」
……小学生の頃から変わってない。
そういう自己中心的な性格が俺の本質であるという事実も去ることながら、気になったのは彼女が小学生の頃から俺のことを見ていてくれたという事実の方だ。
ひょっとすると、俺は覚えているよりもずっと前から、彼女に恋をしていたのかもしれない。人付き合いが苦手な俺が、わざわざ彼女を嫌った理由を考えれば当然の帰結のような気がした。
「私ね、本当はずっとサエキ君のこと見てたんだ。もちろん、今みたいな、その、こういう感情ではなかったけど」
「……うん」
「あの頃はさ、私よりダメな人がいてくれて助かってたの。凄く性格が悪いけど、私が頑張らなきゃって思える人がいてくれるだけで救われてたの」
バス停には、俺と春川だけ。休日の昼下がりにしては、実に空気の読める展開だと思った。
「でも、サエキ君がカッコよくなっちゃって、本当はどうしていいか分からなかった。それどころか、いつも私の方が助けられちゃって。文化祭の日には、とうとう全部見失った気分になっちゃった」
「買い被りすぎだよ」
「……先生やみんな、全員が納得出来るやり方をいつも思い浮かぶ人に対する感想を、買い被りとは呼ばないよ」
春川は、少しだけ強く俺の手を握った。ひょっとすると、それは彼女なりの不満の意思表明だったのかもしれない。
「でもね。サエキ君が私に時間をくれたから、本当にやりたい事が出来たの。誰かの役に立ちたいって気持ちを、何かを書く力に変えられたの。これって全部、サエキ君のお陰なんだよ」
……既に、取り返しの付かないところまで来てしまっている。明らかに、俺の知らない歴史が始まっている。ズルをして手に入れたバラ色が、ウネリを伴って俺たちを包みこんでいる。
もしも、運命が決まっていて、バタフライ・エフェクトが起きるのなら。
「俺は、春川が学校に通ってくれてるだけで嬉しいから」
彼女の幸せのツケを、俺は一体どんな形で払えばいいのだろう。
「ふふ。ほら、また意味の分からないこと言ってる。学生なんだから、学校に行くのなんて当たり前でしょ」
当たり前を謳歌する。そんな彼女がいてくれるだけで、心から満足しているのに。
「……そうだね」
どういうワケか、俺の視界にはいっぱいの灰色が滲んでいた。
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