第12話 誰かがいる
火花の散る教室に、慌てた様子で大葉が駆け込んでくる。
「え……どうしたの。ケンカ?」
急に外野の顔が見えてきて恥ずかしくなったのか、百瀬の顔がみるみる真っ赤になった。
「はーっ。そうだよ。何で俺たちが言い争わなきゃなんないわけ」
「あたしのせいじゃないわよ」
再び言い合い始めるかなえたちの間に由美子が入り、珍しく大きな声で制止する。
「うん。じゃあ、もうやめよ。それより大葉くんこそ、どうしたの走ってきて」
「檜山のランドセルを取りに来た。あ。百瀬、俺、檜山と一緒に出るけど、ふたりはどうする?」
無理やり大葉に連れ出された檜山は、ランドセルを教室に落としていたのだ。
大葉に問いかけられた二人は慌てて支度を始める。
「俺も出る。ちょっと待って」
百瀬が机の中身を引き出し始めると、端から丸まったプリント類がこぼれ落ちた。
すでに支度を済ませてあったのらしい高木はすぐにランドセルを背負って戻ってきて、百瀬の代わりに落としたものを拾ってやる。
「わ。これ、いつのプリント? ぐっちゃぐちゃじゃん」
「うるさいなあ、もう」
百瀬は高木の手から
ちゃんと広げて内容を確認する日は来るのだろうか。
そわそわして待っていた大葉は廊下の窓から運動場の方を見やり、二人に声をかけた。
「先に降りてるよ。菜園のとこでハマセンと一緒に檜山が待ってるから。……あ、そうだ。吉永さん、さっきのチョコもらっていい?」
「いいけど。こんなの、どうするの?」
机に隠した赤い箱を取り出すと、隙間から形のゆがんだチョコがひとつこぼれ落ちた。
箱の中央には檜山の上履きの跡がくっきり残っている。
「檜山に渡す。自分の暴力がどんなものだったか、実物を前に誤魔化すことはできないだろ」
「え。いいよ、もう。私も悪かったんだし」
「別に、吉永さんのためじゃないよ。でも、やっぱ吉永さんじゃなくて、檜山が持ち帰った方がいいと思う」
「だけど……あっ」
大葉がひょいと赤い箱を取り上げる。
瞬間、なぜだか胸の重みがスッと軽くなったような気がした。
踏み躙られたプレゼントを持ち帰る痛みと、それを家で目にするみじめさに押しつぶされる未来を、みんな取り上げてくれたような。
「ごめんね、吉永さん。また明日!」
「あ、南朋、待って」
「ももちゃん。連絡帳、机に置きっぱなしだよ」
大葉が教室を飛び出すと、百瀬は慌てて後に続いた。
その後を連絡帳を掲げて高木が追いかける。
「今日、凛花ちゃん遅いね」
由美子が廊下を見やった時、わっと言う声と共に凛花が窓から顔を出した。
「うう。廊下、めっちゃ寒いよ〜。なんか修羅場だし、入りづらいけど見逃せないと思ってこっそり待ってた。けど、めっちゃおしっこ漏れそう」
かなえが腰に手を当ててため息をついた。
「もー。見せもんじゃない。さっさと行ってきなよ」
黙って覗いてたんだ。
凛花らしくて呆れてしまう。
マンションのある陸橋の向こうまで、学校からは結構距離がある。
私も帰る前にトイレを済ませておこうと凛花の後を追いかけた。
*
「たぶんさ、檜山は屈辱だったんじゃないかな……って、つめた〜〜い! 何で、学校の水道ってお湯出ないの」
手を振るって水滴を周囲に飛ばしながら凛花がキレた。
飛沫をいくつか浴びた気がして不快になる。
「ちょっと汚い。ハンカチ持ってないの?」
「あるけど」
凛花は言われて初めてその選択肢に気づいたかのように、スカートのポケットからハンカチを出してきた。
ハンカチは主にそのためにスタンバイさせているのだと思うけど、違うのかな。
濡れた手を風に当てるよりよっぽど冷たい思いしなくて済むのに。
綺麗なハンカチで手を拭く凛花を不思議な気持ちで見つめる。
「でも、そっか。屈辱か」
改めて言われたことを復唱しながら、凛花のいうことはすんなり腑に落ちる、と思う。
家族からに畳み掛けられ、チョコをあげないわけにはいかないと思い込んでいた私には見えていなかった、檜山の気持ち。
普通、これまで散々嫌がらせをしてきた相手から、チョコを差し出されたら恐怖だろう。
しかも手作りのものを。
先生がいなくなった後、あらかた経緯を知っているみんなの見ている教室で。
檜山はこっぴどく拒否することでしか、自分を守れなかったのかもしれない。
そして、そのために私を傷つけることなんて、まるで平気だ。
胸がすーっと冷たくなる。
「凛花。嫌われてるってしんどいね」
頭に浮かんでいたのは檜山の姿だけじゃない。
距離を取ることもできず、どう振る舞えばいいのかもわからない。
教えてくれたらなおすのに。
でも、きっとその気に入られようとする私の態度のぜんぶが嫌なんだ。
何をしても憎まれる。
存在を許してもらえない。
許してもらいたいのに——。
「めんどいよね! 季節真逆だけど、夏の夜の蚊ぐらいめんどい。無視して寝れればいいけどできなくて寝不足になるしな」
「ん? めんどいじゃなくて、しんどいって言ったんだけど。……もう、どういう例えよ」
思わず気が抜けてしまう。
「違うの? まぁ私の言いたいのは、とにかく杏のせいじゃないってこと。全部、蚊の問題。だって私の血が美味しいのが悪いわけないじゃん。蚊に吸いたい事情があるってだけで、私には吸わせてやる義理もないしさ」
蚊に例えられてもちょっとよくわからないけど、凛花なりに励ましているつもりなのらしい。
「とにかく、蚊の事情は研究者に任せて、やられたら当然パチンでいいの。あー、もう杏のせいで真っ暗じゃん。帰るよっ」
「はぁ」
私には凛花や、みんながいる。
檜山はずっと浮いてたし、幼稚園時代も辛い思いをしてきたのかもしれないけど、でも彼のそばに一人でも理解してくれてる誰かが側にいればいいなと願う。
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